な外面的な形式の部分ばかりで他国と触れ合うまでにすぎぬと思った。そんなら恐るべき人生の進行だ。――
「まったく困る。何んとかならぬものか、何んとか。」
このように考えているときでも、赤旗の流れはますます続いて来ていた。ぶるんぶるんと精悍な胴ぶるいをしているような、脂の満ち張った足並みで繰り出て来たのは、ひと目でこの日の行事の中心団体と目された一群だと分ったが、内臓を立ち割って日に晒し出したようなこれらの光景は、それはすでにもう伝統ではないものが、政治を掴み動かしているのと同じだった。しかも、先日までこれを制御していた洒脱な警官の群れは、自分の意志を隠し、政府の与えた命令のまま今日はこの行進の無事ならんことを護っている。
ふと矢代は、ここに法を守護するフランスの伝統を見たと思った。もしこの法の守護という精神が失われたら、このフランスから自由も失われたときであろう。――彼はそんなに思うとここまで押し転げて来たフランスの国の歴史と、自分の国の歴史の相違を合せ考えてみるのだった。
「サンゼリゼの方、三時半だって?」
と久慈は写真を一二枚とってから矢代に訊ね時計を見た。
「うむ、もう行こう。」
サンゼリゼでは今ごろは伝統派が待ち構えているころだと矢代は思ったが、久慈には黙って自動車に千鶴子や真紀子を乗せて走らせた。
「何んだかこの間ドームで聞いていたら、社会意識がフランスみたいに変って来たら、音楽意識も変ってしまうんだって、そんなに云ってる人があるのよ。そしたら、べートオベンの曲なんかももうそれや駄目だ、と他の一人が云ってるの。本当かしら。」
と真紀子が久慈の方に身をよせて訊ねた。
「それは外人が云ってるの?」
と久慈は訊ね返した。
「ええ、そう、あれはたしかルーマニア人らしかったわ。」
「日本でも一時そんなことが、問題になったことがあったな。誰だったか、天文学にマルキシズムの天文学だの、ブルジョアの天文学だのって区別、あってたまるかって、あのころは日本も危なかったね。」
矢代はそれとなく真紀子の提出した複雑な問題をこの場合の単純さに納めて笑った。しかし、このような後でもふと明日は千鶴子が日本へ帰るのだと思うと、急に話していることや、眼にした光景の総てが空しく見え、自分だけの世界が重重しく立ち戻って来るのだった。
「僕の知人の天文学者でね、豪いのがいるんだが、その男は星を観測するときに、その前に食った食物が野菜だったか、肉だったかという質の違いで、もう観測に現れた数字の結果が同じでないと云ってたことがあるね。食い物でもう違って来るというんだから、天文学にも区別あるかもしれんぞ。」
と久慈は自分に不利な云い方を我知らずに口走って笑った。矢代は自分ひとりの落ち込んでゆく淋しさから延び上り、今は当面の話題にとり縋っていたかったので、強いて勇気を取り戻そうとして云った。
「そんなら、科学は誤謬を造るのが目的だというようなものじゃないか。あ、そうだ。さっき、東野さんがドームにいたんだが、人民戦線の駆り出しが通ったときに、円周率は三コンマの一四じゃ割り切れんぞ、用心をせいと呶鳴っていたな。」
そう云いつつ矢代は、東野のそのときの言葉の意味を初めて了解するのだった。しかし、こんな会話も争いを起さぬ工夫に捻じれ気味で、辷りの悪さを感じたものか千鶴子は、
「あら、あんな所で踊っているわ。今日は踊りを初めて見てよ。淋しそうな踊りだこと。」
と云って皆の視線をある街角の鋪道に向けた。そのあたりはもう人気のない空虚の街だった。通る人もなければ振り向く者もない一角に、数組の男女が慎重にステップに気をつけた態度で踊っていた。山中の踊りかと見えるその男女の舞いの上に、雨も降りかかっているらしく石の上には斑点が浮んでいた。
ドームの前まで来かかったとき、たった一人のお客がテラスに腰かけたままぼんやりと空模様を眺めていた。それが東野だった。
「あッ、おやじ一人いるわい。」
と久慈は懐しそうに云って窓ガラスを叩いたが、その前を通りすぎた一行の自動車は、凄い速力で早やテラスから遠ざかってしまっていた。ここは雨が降ったと見え鋪道は濡れていて、急に冷えた空気が千鶴子たちの香水の匂いをあおり返して来た。
「東野さん、人民戦線なんか御覧になりたくないのね。」
と真紀子は後ろの方を振り返ってみて云った。
「そうじゃない。きっともう見ているよ。」
こう云う久慈に矢代は、
「それや見てる。ただあの人は心の騒ぐのがうるさいんだよ。今日のような日は、一番難しいのは塩野君かもしれないね。写真を写すときには、写す対象がどんなものでも、レンズと同じように冷たくなる努力を要すると云ってたからな。あの情熱家が冷たくなるのは難しいよ。」
何か久慈は云いたそうに薄笑いを泛べて
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