トを持っていると、その日一日は、どこへでも這入って行ける便利があり、前から久慈や矢代の頼んであったものだった。駆り出しの委員らの自動車はまた次ぎ次ぎに叫びながら馳けて来た。特派員たちは種材を集めに散っていったが、矢代は久慈の来るまで動けなかったので、塩野らに先にバスティユへ行ってもらうことにして、落ち合う所をサンゼリゼのトリオンフに定めた。
 テラスが急に空虚になってから矢代はひとりコーヒーを飲んでいた。外から戻って来た外人の話では、グランブルヴァールからナシオンの広場の方へ行進しつつある群衆の数は、およそ五十万ほどだとのことだった。
 あたりの街の人人は、行進を見に行っているのかどこにも人影がなかった。通りの街角に造られた踊り場も、櫓の脚の木材だけ新しく石の間に目立たせたまま、一人の人も寄りついていなかった。石の古い空虚な街がかすかな傾きを明瞭に泛べている真上に、日のあかあかと輝いているのは、落ちている蝉の脱殻を手にしたときのような、軽い頓馬な愁いをふと矢代に感じさせた。間もなく、久慈は枕を脱したらしい膨れぼったい眼でその剽軽な通りを歩いて来た。
「いやに閑静だね。」
 矢代の傍へ腰かけそういう久慈の籐椅子の背が、もうすでにぎしぎしとよく静かな中で響いた。
「婦人連は遅いね。塩野君さっきまでここに待っていてくれたんだが、もう皆いったよ。誰も彼も今日は血眼だ。」
「そうだろう。」
 と久慈は云っただけでコーヒーと鮭を※[#「口+云」、第3水準1−14−87]咐けた。いつもなら何んとか矢代に突っかかって来る彼だったが、今日は何も云わず、黙って額を揉みほごすと軽く横に振ってみていた。
「衝突はあったのかね。」
「さア、どうだか。」
 矢代はふと椅子の下を走り廻っている一疋の鼠を見つけた。隙間のない石ばかり続いて出来たこんな所へ出て来ては、逃げるとすると、鼠も放射線を伝って郊外まで一里あまり走らねばなるまいと思った。そこへコーヒーと鮭とパンが出た。
「いやに静かだね。気味が悪いや。」
 とまた久慈はあたりを見廻して云った。波頭のような二百ばかりの空虚の椅子の犇めき詰っている中にぼつりと浸っている二人だった。コーヒーだけが湯気を静かに立てていた。
「千鶴子さん明日帰るとすると、今夜一つ送別会をしなきやならないが、どこでしょう。ボアの湖へ行くか。それともモンマルトルの山の上がいいかね。」
 久慈が読みとるようにそう云って矢代の眼を見詰めても矢代はすぐ返事が出来なかった。
「どこでも良かろう。」
「どこでも良いってどういうことだ。二人きりがいいなら、僕らは遠慮をするよ。」
「いや、そんな必要はもうないのだ。」
 と矢代は急いで云った。
「もうないって? 何んだか分らないね。」
 妙にくぐり込んで笑う久慈を矢代はうるさく思って黙った。確かに千鶴子と今日一日二人きりの世界を楽しみたいと矢代の思っていたことは事実だったが、それを久慈から指摘されることは、用を不用にする歪みを二人の間にひき起す危さを感じ、矢代は黙ったのである。すると、しつこく久慈は、
「だって、今日一日じゃないか。何んとか恰好をつけとく方がいいに定ってるよ。」
 と押しつけた。矢代は久慈の恰好という意味を一寸考え、まだ千鶴子との間の具体的な恰好は何もつけていない自分だと思った。しかし、それはもう幾度となく考えてしまった後の事でもあり、外国での無理な恰好を急いでつける工夫の愚かなことを、賢さとすることに賛成し難いものを感じるのだった。これは歯を喰いしばるような矢代の痛さだったが、日本へ帰っても今の気持ちが切れるものなら、それならいっそ今のうちに切ってしまうのも、二人のためと思うことに変りはなかった。いずれにせよ、矢代は、ここで自分たちの中に起っていることのすべては夢遊病者の夢中での出来事だと思った。
 もしこの夢が変らぬ事実だったなら、日本へ帰っても変らぬだろうと思い、せめてそれが事実であってくれと祈る気持ちで何事も云わず、千鶴子と別れてゆこうと試みる、ある実証に臨んだような決心とも云うべきものが強かった。恐らく帰れば久慈のいうように、千鶴子と断ち切られてしまうような事があるかもしれぬと怖れはしても、何ものにも代え難いものを失うなら、それならそれは自分の身の錆びであり、自分の受けるべき罰だと思った。
 しかし、そんなに突き詰めたような考えだったにも拘らず、矢代は最後の一点で千鶴子を信じて疑わなかった。外国の婦人ならともかくも、千鶴子を信じ切ってしまったのを、今さら何んの形をつけようというのか、矢代が久慈をうるさく思うのは、大切なこちらの心の暖め方を一挙に突き崩そうとする無理をそこに感じたからだった。
「君のいうように、どこの国でも通用するのは、それや論理かもしれないが、論理以外に人
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