ことは人間に出来得られることでないと、今もなお思い通していることに変りはなかった。
「この中田さんは明日ドイツへ行かれるんだが、あなたはいつです。」
と塩野はまた矢代に訊ねた。中田はある大学の政治学の教授で、特にこのパリ祭を見たくてロンドンから渡って来たのである。この人は闊達明朗な笑顔のうちにも、学生時代からまだ曲って来たこともない素朴剛健な風貌があったので、定めし今日の左翼のこの旺盛さと、右翼の民族意識との対立は、学問として好個の見学材料である以上に、悩ましい問題も解き難く頭を襲っているに相違ないと矢代には感じられた。しかし、見渡したところ、それは中田ばかりとは限らなかった。ここにいるもののすべては云うに及ばず、恐らく世界の知識階級のものたちにとって、この日ほど、注目すべき日は近来になかっただろう。それも、どんなことが起ったところで、ニュースは言葉を濁し、明白な報知をしないに定っているのである。
「僕ももうじきベルリンへ行こうと思ってます。また向うでお会いしましよう。」
と矢代は云って中田のどことなく困惑している笑顔を眺めた。皆が一番衝突の激しいのはバスティユであろうとか、サンゼリゼであろうかと云っている時でも、中田はひとり腕を組み、ときどき黙ってはしきりに考え込んだ。
「ここがこんな風になっちゃ、これから学生に教える人は困りましょうね。」
と矢代は茶飲み話にふと口を辷らせた。
「そうです。われわれはもう教えようがなくなりましたよ。この間からここを見ていて、日本がこんなになられちゃ、こりゃ困ると思ってるんです。」
大学の教授がこんなことを素人に云うのは、一応考うべき重大なことにちがいなかったが、それをふと思わず洩した中田に矢代は好感を持った。世界通念を理由として論理的に中田の呟きを引き延ばし論争をし出すとすれば、日本の大学は破滅すること勿論だった。しかし、中田の呟きには美しい感覚の愁いが籠っていた。破滅させるより続かせる方が良いと万人の希う限りは、念い希う根柢の民族の心を知るより法はない。矢代は久慈と続けて来た論争の焦点がいつもそこだったと思い、今日こそ久慈に誤りを徹底的に感じさせ、一応は日本人の立場に引き戻さねばならぬと決心したが、頭に泛んで来た久慈の顔には、まだ頑な勝気だけが眼に見えて来るのだった。
「ああ、あれには敵わん。あ奴は幽霊に憑かれてる。」
彼は思わずこう胸中で呟きながらも、やはり久慈の出て来るのを誰よりも待つのだった。彼には久慈の勝気が知性というような合理性には見えず、ただ単に勝気という日本人の肉感な癖により見えぬのである。
「失礼なことお訊きするようですが、あなたはこんな今日のようなここの問題、どんな風に考えてらっしゃいますか。青年の問題としてですね。」
と突然、中田は矢代に向って興味あるらしい微笑で訊ねた。
「僕はどうも、公式主義というのは嫌いでしてね。そういうせいか、ここの問題はどうにもぴったり僕の感覚に訴えて来ないんですよ。」
「じゃ、論理的にもですか。」
「そうです。」
と矢代は答えた。自分はここで生活して来てみたわけではないから、無論ここの人間の感情さえ分らないという意味だった。彼はそんなに答える傍ら、感情も分らぬのにどうしてここの論理が分るのかと、内心久慈へいつもあたる抗議を繰り返してみるばかりだった。
「しかし、何んと云っても論理ですからね。」
と中田は呟くように云って俯向き込み、そろそろ頭の中を締め縛っている通念の論理に気を落ちつけた様子で黙った。矢代も黙ったが、しかし、出て来る新人の誰も彼も、論理論理と考え込んでいる無数の頭の進行が、眼だけぱちぱちさせて風景を見ている怪奇極まる図を思い描くと、ふと光線の強く射している対岸の鋪道の石を眺め、早く千鶴子でも来てくれぬものかと待つのだった。すると、後ろの方で立ち上った東野は、
「円周率は三コンマの何んとかじゃ割り切れんわい。そんならみんな用心してくれ頼むぞ。」
と誰にともつかず云って猫背のまま電車通りを横切っていった。その後から駆り出しに廻って来た罷業委員らの無蓋自動車が数台列なり、それぞれ逞しく盛り繁った態勢のまま拳を振り上げて、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
と叫んだ。そして、鋪道のよく光った鋲の上を貫き流れていくのに和し、テラスの外人たちも、いつもとは違って熱して来た。塩野の顔は急に赤くなったと思うと、突然、
「馬鹿野郎ッ。」
と自動車に向ってひとり叫んだ。早口の日本語だったから誰にも分らなかったが、塩野は胸にぶら下ったカメラを手で受けつつ、
「さア、行こうや。あ、そうだ、君に上げるの忘れてた。」
と云って、ポケットの中から大使館で貰って来た金属で出来た小さなカルトを二つ出し矢代に渡した。記者の標のそのカル
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