も流行らぬ店のようで、手持無沙汰な愛人たちの顔つきだった。
「おい、やってみようよ。手さえ横へ出していなきゃ絶対安全だよ。皆でやろうやろう。」
 久慈はそう云いながら矢代を曳いて無理に自分がさきに立ち段を上った。おじけるかと思った真紀子や千鶴子も素直に後からついて来た。空いた自動車の一つに乗った久慈は横へ真紀子を乗せ、他の車に矢代と千鶴子が乗って無造作に運転し始めた。二人がきっちりと腰を並べられるほどな狭さの低い自動車だったが、さて走らせるとなると、あんまり自由にどちらへでも辷りすぎる不安定さで、なかなか思うようには動かなかった。
「ははア、これや、いよいよ真人間だ。」
 と久慈は矢代の方を面白そうに見て笑った。少し辷り出してまだ笑いの停らぬ間に、もう残酷に一台の車が突進して来だ。そして、「あッ。」と云う途端に横腹へひと突き衝っていった。大きな音の割りに痛さを身に感じない具合は急に久慈を大胆にさせた。彼は電流の不安定さに任せて群がる自動車の中へ辷り込んだ。みな誰も手もとの狂いのままに相手の狂いも赦している寛容な顔がひどく久慈に気に入った。初めは人に突き衝ることよりどうして避けようかと気を張ったが、無秩序を理性としている他の車の進行に注意していては、この混雑した闘争のさ中をきり脱けることが出来なかった。あ奴が衝って来そうだぞと勘づくと必ず衝って来る予想に緊張して、衝突の前に早や真紀子は、「あッ。」と悲鳴をあげ久慈の胴に獅噛みつくのだった。二つ三つも衝りをくってぐらついたころ、矢代の車の中でも千鶴子の叫びが上っていた。
「よし、ひとつ矢代に衝ててやろう。」
 と彼は真紀子に云った。そして、ハンドルを廻し矢代の車の胴を直角に狙って勢いをつけてみた。矢代より千鶴子の方が眼ざとく久慈を見つけると、恐れおののく風に上体を横に反らせて矢代の胴を抱き、追って来る車を見詰めつつ、
「いや、いや。」
 と眉を顰めた。そこを久慈はにんまりと笑って突撃した。物凄い音響と同時に火華が散った。どちらの車も停ったまま睨み合っていたが、すぐ矢代の方から辷り出すと今度は彼が、久慈の方へ突っかかって来るのだった。
 久慈は失敬しながら矢代の首を避け、遠廻りに廻ろうとしかけたそのとき、さきから意志を少しも見せず衝るを幸い薙ぎ倒していた青年の車が、「がッ。」と久慈の後尾を突き動かした。ハンドルを取りそこね、久慈の車は半廻転ほど横になった。すると、そこをすかさずまた矢代の車が一撃した。二度の衝撃で久慈はS字形に曲ったまま、思わぬ車の横腹へ突き衝ってしまった。そこへまた他のが蹌踉けて来て首を突っ込む。三つが捻じれているところへ意地悪いのが故意に首を入れたので、たちまち楔に裂かれた三つが意外な開きで散っていった。
 幾らか自由になったとき久慈は矢代の方を見てみると、彼も反対の隅へ押し籠められていて、出ようとする度びに、後から後から来るのに突き衝てられて困っていた。
 ところが、気をつけるともなく久慈は気附いたことだったが、千鶴子に突進してゆく車の多くの婦人は、運転している自分の男のそのときの心を忖度する気色でむっと衝る時ごとに怒った表情に変った。そして、誰かから自分が突撃を受けると遽に笑顔の悲鳴となるのだった。しかし、そう思えば、たしかに久慈も矢代へ突きかかってゆくときには、千鶴子に点数を入れたい気持ちが強いのを思い出した。殊に千鶴子への態勢を構えるとき、ぴたりと矢代に身体をよせかける千鶴子のなまめかしさが、妙に敵意の残酷さを久慈に抱かせ、彼は廻すハンドルに手心も加えず突き放すのだった。
 場内は絶えず微妙に変転するので、叫声と笑い以外に物を云うものは一人もなかった。同乗者は身体がくっついているためにその動きで忽ち意志が分った。久慈は真紀子の希望する男の車が近づくと、自然に延びる真紀子の体を感じ、突然その方へハンドルをひねり変えて突き衝った。が、また真紀子をつけ狙う男の車に向かっても容赦なく突撃した。
 運転が馴れるのに随って車はかなり自由に操縦することが出来た。そうなると争う気持ちを技術の拙劣さに隠す便利も出来て、一層この勝負は時間を忘れ、同乗の婦人も看板娘のようにますます役目を自覚して来る。そして、衝突の度びに発する火華が口づけの変形とも成り深まって来るのだった。
 特に自分の好きな男と衝突したとき、女のあげる悲鳴は大げさだった。一人の女は絶えずこれ見よとばかりに好んで悲鳴を上げた。久慈はその女が小憎らしくて突きかかったが、その度びにも女は喜びの悲鳴を上げるのだった。一番操縦の上手い顔の緊った美しい青年は、悠悠とひとり遠方を廻って来ては、急ピッチでいつも真紀子の横腹へ突入して来た。真紀子もその青年が近よる度びにそわそわとして、自分以外の誰に衝るものかと注意を怠らない風
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