情だった。
 久慈は度び度び美青年の自動車を狙って衝った。青年の猛烈な攻撃が頻発して来ると、久慈は真紀子への嫉妬も嵩じ、突然首を廻して千鶴子の車へ突撃したりした。こんなにして戯れも時とともに次第に意識を変えて来たときである。久慈はまたも千鶴子を狙って突きかかろうとした瞬間、
「あッ。」
 と叫びを上げて真紀子が傾きよったと思う間に、青年は久慈のハンドルを突き飛ばした。
「こ奴ッ。」
 と久慈は思い、捻じれた首を立て直して青年に狙いをつけた。すると、また青年は隼のように久慈に向って飛びかかって来た。久慈と青年との間で火華の発する度数が増すにつれ、真紀子はもう叫びも上げなくなってしまった。二人の争いがだんだん人目に立って来ると、矢代も見るに見かねたものか、今度は彼がその青年に突撃を開始した。しかし、何んといっても青年の操縦は見事だった。これに敵うものはなく誰も後を追っ馳けるものもいなかった。青年は巧みに群がる車の狭い隙間をひらりひらりと体を翻し、遠くへ存在をくらませては、機を見て不意に殺到して来て引き上げるばかりだった。
 久慈はいら立たしくなると悲鳴を上げる女へぶっつけたり、千鶴子の体へ捻じ込んだり、衝るを幸いに衝り散らして運転をつづけてみた。しかし、いら立てばいら立つほど人からもぶっつけられ追い込められ、やがて冷汗をかきかきハンドルの自由が少しも利かなくなるのだった。そうして、久慈は、とどのつまり、まったく意志の乱用は自由を失うという教訓を身をもって証明させられる結果となっただけで、この電気遊びは終ったのである。
「ああ面白かった。でも、がちゃんとぶつかるときは恐いわね。」
 円形のホールを降りてからそういう真紀子と並び、久慈は、マロニエの間を矢代たちと歩いた。彼は生活の縮図から解き放されたほッとした安らかな気持ちだったが、見せつけられた人生の見本から立ち去って歩んでいる今のこの延びやかさは、つまりは際限のない死のようなものかもしれぬと思った。
 円形のホールを振り返ると、檻の中ではまた新しい客たちの火華を散らしているのが樹の間から眺められた。久慈はより添って来る真紀子に何ぜともなく情愛を強く感じ、腕を支えてホテルの方へ歩いていった。今はもう彼は千鶴子や矢代のことには介意ってはいられなかった。


 当分の間は久慈は真紀子の部屋で泊ったり真紀子が久慈の部屋で泊ったりした。ときにはまた二人でどこかのホテルで一泊したりしたが、久慈は外見一点の非のうちどころもないほど完全に真紀子を愛するように努めてみた。街を歩くときにも外人のように腕まで支え、あれを食べたいと真紀子が云えばそれを食べさせ、またこれが見たいと云えばそこへも行った。閑のきくときに一人の婦人にも満足も与えられないような男なら、日本へ帰って何をしてもしれていると思われたからだった。またそんなにすることにかけては、ここは日本にいるときよりもはるかに手易いことであり、そうしていても誰からも邪魔されないように、ここの日日の生活様式が出来ていた。二人に争うことがあるといえば、夜眠るときどちらかの一方が早く眠りすぎたとか、デパートで少し買物の時間をかけすぎたとか、いくらか会う時間が遅すぎたとかいうほどのことよりなかった。しかし、そうとはいえ久慈の心底には絶えず何か物足らぬものがあった。いずれ二人が別れるものなら、いつ別れても良いと準備している心がいつも二人の中にひそんでいたからだったが、それも一つは、そのような予想が互いにあればこそ争いのない旅の日といえばいえるのかもしれなかった。もしどちらかそれを明瞭に切り出して云ったなら、二人のどちらかが困りはてる結果になるということも定っているのだった。
 こんなにつき詰めた感情をどっか最後の一点に置き残している久慈と真紀子とのある日、いよいよパリ祭が明日だという日になった。街角には踊りに準えるバンドの杭の打ち込まれる音が聞える一方に、フランスの各県から集って来た労働者の団体が三十万四十万と、檻のようなパリの中へ続続くり込んで来ていた。夜になると、明日の朝まで大行進をつづけるのだという細民の太鼓の音が、街街から聞えて来た。この左翼の勢揃いの固まるにつれ、右翼の陣形もますます練り固まって来たという噂が久慈たちの耳にももれ伝った。バスティユの牢獄を打ち破ったフランス革命のときのように、明日も第一番にバスティユの門が砕かれるであろうという話も、一般の予想の一つだった。
 銃剣をつけた警官隊が街街の辻に群がり立って暴徒の警戒にあたった。自動車がどこかへ徴発されたと見えて数少くなっている街の中を、この夜久慈は矢代と一緒に歩き廻ってみた。街の通りを行列をつくって進む群衆を見るときどき、彼は祭の夜の電気自動車を運転した檻の中を見る思いで、明日はいよいよ火華が
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