も帰りたいわ。帰ろうかしら。あたし。」
「お帰りなさいよ。」
と千鶴子はすかさず眼を輝かせて真紀子の方を一寸見返る様子だったが、ふと久慈と真紀子のことに気附いた素振りで急に黙ってまた歩いた。久慈は足早やに矢代を誘い婦人たちから放れていったとき、
「君、千鶴子さんとのことどうなったのだ。」
と矢代に小声で訊ねた。
「別段何んの変りもないね。」
と矢代は久慈から顔を背けるようにして答えた。
「それで良いのかい? 変らなくたって。」
「変ろうたって、変りようがないよ。」
「しかし、まアそう云ったものでもないだろう。何んとか約束めいたものでもしとくとか、何んとか方法があるからな。帰ればとにかくもう駄目だよ。」
矢代は黙っていた。
「僕が代りに相談に乗っといてやってもいいよ。何んの表現もしないというのは、こちらが困るより向うが困るんだからな。」
「とにかく、好意は有り難いが今日はそのことは、まアよそう。」
矢代はあくまで慎重な態度だった。久慈は、自分の問題が自分の中ばかりで膨れているように、矢代のも外から触られぬところに疼いているのであろうと思い返し、婦人たちが近よって来たとき話を一変させるのだった。
しかし、久慈はここで二人の争いつづけたものは、婦人のことではなかったことを思って心も慰められて来た。
「僕らがこうしてパリの街を歩いていて、ふと自分の考えていることに気がつくと、どういうものだか、どっか胸の底で一点絶望しているものを感じるね。君はどうだかしらないが、僕はたしかにそうだ。何んというか、眼にするものを尽く知り尽そうとしていら立つ精神が、これやとても駄目だと知って投げ出された後の、まアいわば、あきらめみたいなものだよ。この街の成り立っているそもそもの初めから、人間が今まで考えて来たこと、して来たことを、全部くぐり込もうとするもんだから、絶望をするんだ。つまり、自分がたったこれだけより知らんのだと、思わせられてばかりいるんだね。」
ある街角のところで突然久慈がこう云い出したが、皆だれもそれにつづけては云わなかった。すると暫くして矢代は笑い出して云った。
「前へ行っても駄目、後へ戻っても駄目だというんだろ。」
「そうだよ。ここは戦場と同じだね。頭の中は弾丸雨飛だ。看護卒が傍へ助けに来てくれても、こ奴までピストルを突きつけやがる。もう僕もだいぶ負傷をしたよ。」
「どっちも生還おぼつかないかな。」
笑うところも考えればもう二人は笑えなかった。
久慈は西日の照りつける中へ動かす矢代の足を見ながら、彼も同様に無数の手傷だなと思われ自然に労わりの心が起って来るのだった。
その夜千鶴子のホテル附近の広場に祭があるというので、夕食後四人はそれを見物に出ていった。広場に繁り揃ったマロニエの幹の間で、いつもとは違った篝火のような明るい電灯が輝き、色めいた屋台の夜店が沢山出ていた。機械の中から吹き出る綿菓子を雪のように積らせた店や、彩色入りの長い飴棒を束ねた店や、玩具店などと並んだところは、日本の縁日に似た町祭だったが、その間を歩く人人はあまり嬉しそうな様子もなかった。四人は夜店の天蓋の下を散歩してから見世物の前に立った。大きな本物の馬ほどもある背の高い廻転木馬が眼を怒らし人も乗せず街路樹の青葉を擦りつつ廻転している様は、空を馳けぬける駻馬のように勇しかった。その横に円形の音楽堂のようなものがあって、コンクリートの狭い床の上を、二人乗りの豆自動車が十数台も動いていた。
四人はそれを一番面白がって長く見ていた。天井の全面に張られた鋼鉄の網には電流が通じていると見え、豆自動車の頭から天井へそれぞれポールが延びていた。運転する客たちはみな愛人らしい婦人を自分の横に乗せ、わざと他人の自動車へ自分のを衝突させ瞬間のスリルを楽しむ風な遊びだった。乗っている人種がさまざまなところへ衝突御免の遊びであるから、見ていてこれほど秩序のない乱暴なものもなく、露骨に好意や敵意のまま突進して相手の悲鳴や笑いを楽しむのである。一人乗っているものは自由にひらりひらり衝突を避け、ここぞと思うと首を廻して矢庭に敵の胴腹へ突撃した。衝突の度びに車体の間から火華が噴いた。お人好しは突き衝られてばかりで、左を除けると右から来、右を除けると左から攻められ、うろうろしている間に前後左右から突き衝てられて立往生をしたりした。
久慈は朝チュイレリイの噴水を見て来たためか、これも何んとなくフランス革命を象徴している遊びのように思われて面白かった。
「やってみようじゃないか。国際法のない戦争だ。こんな勉強はないぜ。やろう。」
しかし、まだ矢代は、「うむ。」と云ったままやり出しそうにもなかった。美人の愛人を横に乗せている自動車ほど衝てられる気味があり、またあまり衝てられないの
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