ないと簡単に興ざめてしまうのだった。
「ロンドンへはそのうち僕も行ってみたいと思っているんだが――そのときはもう千鶴子さんいないんだな。」
久慈のそう云うのに矢代は、千鶴子の帰る話題を切りとるような強い調子で云った。
「どうもパリ祭を待つためだけに僕らはこうしているのだが、考えればつまらないね。何かその日に起ったところで、フランスの事じゃないか。馬鹿馬鹿しい。」
「しかし、起ることは見ておいたっていいよ。損にはならんさ。」
と久慈は云った。
「損にはならんが、左翼と右翼の衝突など起ったところで、少しばかり血が流れるか、さもなきゃ、どっかへまた吹出物みたいに潜り込んでは出るだけだろ。」
「ところが、それが分らないんだからね。君がパリ祭を見たくなきゃ、千鶴子さんとロンドンへ行けよ。後でヒステリ起されちゃ、お相手するのかなわないぞ。」
斜めに射した光線を額に受けたまま矢代はただ笑ったきりだったが、千鶴子と別れる矢代の淋しさなど久慈にはもうあまり響くことではなかった。
「しかし、見るところ静かだが、何んとなく物情騒然として来た様子だね。今ごろは日本も眼を廻して来ているよ。どこもかしこも火点けと火消しの立廻りだ。」
自分に触れる話を避けてそう云う矢代に、久慈はふとびくりとして、自分もひとり胸中の何物かに火を点けたり消したりしているなと思った。街路に向って籐椅子を集めたあたりのテラスには、いつもの顔馴染の客たちがだんだん集って来た。およそ百人あまりもいるかと思えるそれらの中には、新しい顔も混っていたが、誰からともなく客の素性の聞えて来ているところを見ると、さも互に無関心らしくしている外人たちとはいえ、これでいつとはなく、話のついでに落ち合う客の話も洩れているのだろうと久慈は思い、自分や矢代や千鶴子、真紀子のことなども、おぼろに彼らの頭の中にも何かの影を与えているのだろうと想像された。いずれも各国から集って来ている火消しか火点けかにちがいない客たちだったが、パリでもこのドームは特種に名高いところと見え、郊外遠くで拾った自動車もただこのカフェーの名を一口云えば、忽ち通じて車の動くほどの便利さだった。初めは気附かなかったことだが、このようなカフェーのテラスでも、久慈たちの一団はいつの間にか生彩を放った組となっていた。千鶴子と真紀子が現れると、うるみを帯んだ繊細な肌を鳳の眼のように涼しく裂いて跳ねている瞼など、一きわ目立って人の視線を集めるのだった。
矢代は近よって来たボーイを顎でさして云った。
「このボーイだよ、この男、一昨日マネージャーにここで詰めよってストライキの膝詰談判をしてたんだが、今日はどっちもけろりとして仲がいいね。習慣というものは、喧嘩にまで形式を与えて来ているのかな。」
久慈は何も答えずそのまま階段を降り地下室の化粧室へ這入った。掃除婦が鏡に向ってひとり髪を梳いている閑そうな姿の上に電灯がついていた。彼は用をすませ、皿に金を入れようとしているとき千鶴子が上から降りて来た。久慈は財布に細かいのが見附からなかったので千鶴子に借りながら、
「君、今日はもうどこへも用がないの。」と訊ねた。
「ええ、これから版画のお土産でも買いに行こうかしらと思ってたとこなの。ね、一緒にお見立てして下さらない。でも、真紀子さんにいけなければ、御遠慮してちょうだい。」
白銅をハンドバッグの中から出し、千鶴子はもうみな分ってるのよときめつけるような冷たさで、ぴちりと皿の上に白銅を置いた。擦れ違いざま久慈は、不必要なまでに厳しい金属性の響きが髄に刺さるのを感じた。それではもうこれで最後のボタンをひきち切ら[#「ち切ら」に傍点]れたのだと、薄笑いのまま彼は階段を昇ってまたテラスの光線の中へ戻って来た。
千鶴子も戻って来たとき四人は附近の版画屋を数軒見て廻った。ある店でゴッホの若い時代の写実的な版画を見つけると、久慈は、これは誰の土産にもやれないと云って自分が買った。千鶴子はベラスケス、グレコ、ゴヤなどとスペイン物を一番欲しがった。イタリア物も少し買ったが、そのついでに子供たちにやるクレヨンも買い整えてからふと見ると、日本製というマークが這入っていた。
「いや、それは何より土産だから買って帰りなさいよ。」
と皆の大笑いする中で久慈は云った。一つだけ千鶴子はそれも買ってみてまた次の店へ歩いたが、帰り支度を手伝いながら歩いている途中にも、久慈は何んとなく日本へ自分も帰ってみたくなるのだった。
「どうも一人に帰り支度をされると淋しいね。脱けかかった歯を動かしてるみたいで、落ちつかないや。」
久慈もその気ならと思ったらしい真紀子もすぐそれに応じた。
「そうよ、あたしもさき[#「さき」に傍点]から、帰りたくってむずむずして来てたところなの。ほんとにあたし
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