館をめぐった緑の濃い樹の蔭から朝の噴水が正しい姿で光っていた。まだ日光に暖まりかねた大理石の石階を踏みつつ、久慈はこれからセザンヌを見るのだと思うと、真新しいカラアを開くような豊かな喜びを感じて第一室に立った。
あまり広くもない三室を連ねたばかりの会場に人は相当這入っていたが、それもうるさいほどではなかった。見渡したところ皆誰も帽子をとり声も立てず、お詣りのように静静としているのが久慈には先ず気持ちが良かった。絵も百四十点もあった。彼は一つずつ見て廻らず、中央に立ってざっと一度見廻してから、惜しむように最初にもどって虱潰しに覗き始めた。見てゆくうちに、どの絵も初期のセザンヌの正確な筆力の延長が狂いを起さず、自ら枝葉の延び繁った写実の深まりゆくさまを壁面に順次に現しているので、その前に立った黒い服装の真紀子の姿まで、きりりと締って無駄のない美しさには見えるのだった。
「一番普通のことをセザンヌはやったんだな。それが皆には出来なかったんだから、おかしなものだ。」
と久慈は途中で真紀子に呟くように云った。そう云いながらも彼は、自分もごくありふれた日常の普通のことをそのまま普通に考えることの出来なくなってしまっている妙な頭に気がつき、ときどきはこのような絵も眺めて頭を正さねばならぬと考え、自分の頭のどこがどんな風に事実の正しさから曲り遠ざかっているかと、あらためて考え直して見るのだった。
「こんな絵を見ていると、迷いが起らないからいいね。果物だと取って食べたいように描いてあるだけだし、あの爺さんの絵だと、一つ冗談でも云って笑わしてやりたくなるから妙だ。何んの変哲もない絵ばかりだね。」
「そうね、それがやっぱり難しいのね。」
と真紀子は頷きながら、手に刺さりそうな鋭い矢車草の葉のもり盛った花瓶の絵の前へ歩を移した。
久慈は順次に見て歩くままに真紀子と放れていったが、ときどき真紀子の方を振り返ってみた。そして、彼は一度真紀子を見る毎に、壁面の絵を見るのと同様に彼女の姿をも眺めている自分だと思い、ただこうして人を見ただけのことを絵に描くとすると、これほども苦心をするものかとまた画の難しさを考え、連った二室のうちの一番奥の有名な浴みの絵のかかった部屋へ這入っていった。
久慈の見たのでは、このセザンヌの晩年の東洋画のように渇筆を用いた画面には、もうそれから以後の人人の迷いくらんでゆくような、絵画上の手法の乱れる徴が顕れているように感じられた。前の二室に満ちているそれぞれの絵には、対象に集中された精神に簡略された軽さがどこ一点もないのに反し、最後の浴みには、未成品とはいえ画面の構図と線にいちじるしい精神主義が顕れ、も早や現実に倦怠を感じた画家の抽象性が際立って見えていた。それはまことに嫋嫋とした美しい線と淡彩から成っていて、カンバスの生地の色もそのまま胡粉の隙からいちめんに顔を出し、それが全体の色調の直接な基準色ともなり変っていた。
久慈は鼻を浴みのカンバスに喰つけるようにして油の匂いまで嗅いでみてから、三室を幾回となく歩いた。暗くもなく明るくもない光線に満された部屋の中には、絵や人を不必要に威圧する壮厳さもなく、観るものの心を動揺させる不自由さもない。初めの間、彼はふと外へ出ていってまた観に這入りたくなるような、気軽な気持ちで画面を眺めているうちに、だんだんセザンヌのその絵にさえ特種の美しさの何もない単純化に気がついて、「おや。」と思った。それは求め廻っていたものが、ほのかに顔を赧らめつつこっそり傍を通り抜けていく姿をかい間見た思いに似ていたが、次の瞬間、
「これはッ。」
と久慈はベンチに腰かけたまま無言だった。とにかく同じ驚きが一回廻るごとに、ごそりごそりと底へ落ち込んで来るような得体の知れぬ感動だった。彼はもう何んの想念も泛んで来なかった。まったくいつもとはどこも変った顔ではなかったが、内心彼は愕然としていた。今まで日夜考えつづけていたことは何んだったのだろうと思い、ここまで来てただこんな単純な美しさに愕いたとは、何んという脱けた自分だったのだろうと思って歎息するばかりだった。
「マルセーユで見た景色とそっくりのあるのね。あの海の絵ね。横の山もそうだわ。」
真紀子は巻いた目録を唇にあてながら久慈の横のベンチへかけて云った。
久慈は、「うむうむ。」とただ頷いた。しかし、巻き襲い群り圧して来ている数数の流派の複雑多岐な大濤を、この単調な小さい絵が噴きあげ突き跳ねして崩れぬ正しさについて、どのように形容して良いのか彼は分らなかった。それは久慈にはただ単に絵画のことばかりは見えず、世の中を横行している思想や人の行為がすべて同様だと思われ、そして、自分もまさしく噴き上げられたその一人だと思うと、にわかにあたりを見廻し、失われたものを
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