バンドのリズムに無類に敏感な反応を示しながら、廻し眼鏡に顕れる六華のような端正な開きをし、閉ったかと思うと延び、廻転しながらも捻じれ、細片になっては綜合され、遅滞もなければ早急さもないある一定の、ことりことりという死のような単調さで総てが流れていくのだった。
「凄いなア。」
 久慈は見ているうちにそれが人間の踊りとは見えなくなって来て云った。真黒な天鵞絨の緞帳を背景にして、踊る人間の全系列を支配した幾何学模様のその完璧化は、名状しがたい華奢なナイフの踊りのように見えて来るのだった。そうして、幕が降りると、観客を中央へ吸いよせるバンドが急調子に噴き上った。
「踊りましょうか。」
 と真紀子はもうこれ以上見てばかりではおれないらしく久慈を見て誘った。久慈は真紀子と組み、千鶴子は矢代と組んで客たちの中へ流れていった。めぐる度びに矢代の背から顕れる千鶴子と久慈はときどき視線を合せた。しかし、千鶴子は、昼間の動揺を悔む手堅さで一層矢代への親しさを泛べ正しく廻った。千鶴子のその微笑に、久慈もまた自分の支えている真紀子をいたわるターンが深まるのだった。
 幕が上ると、客席へ戻る客たちの揺れやまぬ間に、もう舞台では空中に吊り下った月の輪を中心に、三つの弁となった人体のゆるやかな踊りが始まった。鳥の毛を頭にさした裸女の群れが、その皮膚を舞台いっぱいによせ合い、下からじっと月を仰いで動かぬ一面のローズ色の雲の形となり、静かに月に随って棚びき流れていく。すると、見るまに舞台いっぱいに拡った静かな雲の一端が、どっと溢れて客席の踊り場の中へ雪崩れ下った。そして、溌剌としたピッチの踊りに急変すると、旋回しつつ左右に分れてはまた一つに収縮し、月の吸引のまま再び舞台に逆流していった。その後を客たちは、潮にひかれる人の群れのように総立ち上って踊り場へ流れ込んだ。久慈は舞台の上と下とのそれらの踊りの合一していく壮観さに、思わず立って今度は千鶴子と組んで流れた。矢代も真紀子と組んだ。翻る度びに肩越しに閃めく真紀子の眼が青く光っては遠ざかりうっとりとした半眼でまた顕れる。舞台の空中の月は招くように銀色の輪から腕を延ばし、脚を廻し、雲と人とを見詰めては光りを放ち変えていくのだった。
「真紀子さん、今日はどんな御容子でして?」
 千鶴子は昼間の首尾も気がかりなのか胸を反らし、初めて久慈を仰いだ。
「なかなか平和でした。心配したほどのことでもないな。」と久慈は答えた。
「じゃ、やはりお定めになったの。」
「もう定めようかと思ってます。」
 久慈はそう云いながらも、あんなに自分を揺り動かした千鶴子の背中に、今こうして手を廻しているにも拘らず、真紀子との結婚の意志を決めたとなると、ぴたりと不安がなくなって来るのを覚え、何んと男女は隠微な動きをするものだろうと、遠ざかっている真紀子の方を見るのだった。
 上下の踊りがだんだん運行する宇宙の形を整えて来るに随い、その階調の中から顕れて来るように、離れていた真紀子の顔が軽快なターンをとって近づいた。すると、その半眼の瞼がまた久慈に昨夜の薔薇の記憶を呼び戻し、廻りすすむ自分の胸もその紅いの一点をめぐって崩れ流れていくように思われるのであった。


 窓にまで這入って来る雀の人馴れた囀りが下の繁みの中へ吸い込まれた。蛇口をひねり久慈は湯を洗面の陶器に満たしてから、石鹸の泡を腕までつけてたんねんに洗った。朝の光線に皮膚が少し青ざめて見えたが、擦るうちに腕は赤味を帯んで来た。
「今日はセザンヌの展覧会があるな。それをひとつ見に行こうや。すっかり忘れてた。」
「そうね。」
 真紀子は久慈のテーブルで手紙を書きながらうつろな返事だった。久慈はワイシャツを着替えると剃刀の刃を革にあて、一寸真紀子の首の延びた初毛を見てから顔を剃った。日光の射している右半面の石鹸を剃ぎとる傍ら、彼は出来事の起ってしまったことは今さら何を云おうと無駄だと、あるおだやかな観念に浸ろうとするのだった。
 男女が窮極にしてしまうことを、まったく前後も考えることなく行ってしまったこの朝の日光を尊く久慈は思い、不平も何もない一刻だったが、これを千鶴子に知らせて良いかどうかとちらっと一度は彼も考えた。
 恐らく千鶴子と矢代は自分と真紀子の行ってしまったようなことさえ、未来のこととして旅の気持ちをつづけているのにちがいあるまい。昨日の朝はここのこの鏡に千鶴子は顔を映し、
「それで、どうなさるおつもり?」
 と自分に真紀子のことを訊ねたのを久慈は思い出したりしたが、昨日と変ったこの一大変化が特別変った気持ちも起させず、むしろ平凡に静かなのが彼には物足りぬほどだった。
 食事をすませてから久慈は真紀子と銀行へ金を取り出しに行って、帰途チュイレリイの画館へセザンヌの展覧会を観にいった。画
前へ 次へ
全293ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング