探し求める謙遜な気持ちにふとなって来るのだった。
「ただ何んでもない、何んでもないことが肝腎なんだなア、つまり。」
 久慈はこんなことをひとり呟いて真紀子と一緒に絵画館を出ていった。彼は階段を降りながらも、夾雑物のとり除かれた眼にいつもより深く真紀子が映るように感じた。真紀子も照りつける日光に眩しげに首をかしげつつ明るく嬉しそうだった。二人はチュイレリイの廃墟の跡を横切って花壇の方へ出ていった。アマリリスやカンナ、スミレなどの咲いた花壇の中に噴水があった。その傍のベンチに休むと、前方の広場に幾つも上っている高い噴水も一緒に眼に入り、あたりは日に輝き砕ける水柱にとり包まれた爽やかな競演を見る賑やかさだった。
 久慈はどんなことが頭に流れて来ても懼るるに足らぬと思い、出来事も昨夜のことなどはもっとも自然なことのうちの、とるに足らぬ一つだったのだと思った。
「ウィーンから手紙来ることあるの。」
 暫くして、久慈はまだ訊き忘れていた真紀子の別れた良人のことを、このときを機会に一度はっきり質しておきたくて訊ねてみた。
「たまには来るの、だけどその方は御心配いらないのよ。」
 強いて安心を与えるためばかりでもないらしく、真紀子は無造作に笑ってちらりと久慈の顔を見た。その笑顔も一度は云っておかねばならぬことを思い出したという風に、
「それよりあたしこう思うの、いけないようにお話とらないでね。その方がつまらないこと考えずともいいんですから。――あたし、御存知のように勝気な性質でしょう。ですから、結婚のお話だけはどちらも出来る限りしないことにしましようね。あたしの家はそれや複雑な家ですから、考え出すととても駄目。」
 こちらでの出来事はすべてこちらだけとしてすませたい真紀子の希望は、昨夜千鶴子からも云われたように、久慈にも意外なことではなかった。しかし、また昨日のようにいきなり俳句を持ち出して自分を怯ませた真紀子の勝気が、こんな出来事の後までもつづくものとは久慈も予想しなかった。久慈はセザンヌを見た後の幸いな後味を崩したくなかったので、そのまま真紀子の隠された意志を追求してみる興味はもう感じなかった。そうして暫時、彼は暖味な微笑で両手を頭の後ろに組み、絶えず噴き上っては変化する噴水の色を眺めながら、まだ午前の思って見たこともなかった空虚な豊かさを持ち扱いかねているのだった。
 噴水はそれぞれ無数の水粒を次ぎから次ぎへ噴きのぼらせていた。ある頂点で水粒は一度頓狂な最後の踊りをすると、どれもこれも力を崩し、速力を増して落ち散り、無に戻る運動を繰り返し、そうして、絶えず地中の法則というような姿だけは崩さず保って流動していた。ときどきは風のままに散る方向は変っても、噴きのぼるときには、風を突きぬけた気力の若若しい緊張がある上に、頂きで跳ね踊る姿のみな違うその面白さ。――久慈はこの朝の見事な噴水から眼が放れなかった。彼は自分がその一粒のどれかに似て見え、瞬時の休息の隙もなく砕け散る光りの嬉嬉としているのが、生きている瞬間の楽しさとなって身内に静かな情慾さえ次第に高まって来るのだった。
「噴水を見ているというのは実に面白いものだな。砕けるものまで嬉しそうだ。しかし、まったくそうかもしれない。」
 とふと久慈は呟いた。
「あなた今までそんなことを考えてらっしたのね。」
 と真紀子は、それで初めてあなたが分ったというような、久慈には意外に見えるほど満足した微笑だった。
「でも、ほんとうに面白いもの。あの頂上で分れて水の落ちる瞬間のところに、ある一線があるでしょう。あの線のところを見ていると、君の姿までぼんやりあそこへ浮き上って来るんだからな。なかなか楽しいよ。」
「そういうものかしら。男の方は。」
 と真紀子は云って暫く噴水を眺めていてから、「分らないわ。」と小声で呟いたが、何か久慈と共通のものを感じたらしい赧らめた顔で身を彼の方へ傾け、そわそわした風情ながらも、またそれを急いでもみ消す苦心だった。
「さア、いきましようか。」
「もう少しいよう。この噴水だって、フランス革命のときの血の中から噴き上っているようなものだからな。」
 チュイレリイ宮殿の跡といっても、今は画館と浮草の巻き返った高い金色の門より残ってはおらず、プラターンの繁みの下で子供たちが白い股を露わしているだけの公園だったが、しかし、久慈は跳ね散る水玉の絶え間ない運動をうっとりと見つづけているうちに、そこに見える唐草の金色の門から噴き上った革命の騒擾が、まただんだんと思い描かれて来るのだった。そのときは眼の前に連っている鉄柵を揺り動かして群衆が押しよせ、またその狂乱する群衆の心理の底をかい潜って、これを煽動する一群の貴族や躊躇逡巡して決意を知らぬルイ十六世の若いインテリの眼の前で、膨れ上って燃える
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