化だけがあったのじゃないのだね。印度や西域や波斯《ペルシャ》、それから大食《タージ》、イラン文化までずらりと長安に並んでたんだから、まるで今のパリみたいだ。ところがそのころの日本にだって、天平六年に、唐招提寺を興した鑑真などという中国の坊さんは、如宝という建築彫刻の名人の西域人や、印度人や、中国人を二十四人もつれて帰化して来たものだから、イラン文化も同時に伝ってしまったのだ。そこから見ると源氏物語が平安朝に出たなんか当然なんで、仏像にしても奈良朝の天平八年に菩提とか仏哲などという印度人が日本へ来て、イラン文化というようなヨーロッパ文化の発祥みたいなものを仏像として日本に入れてしまっているよ。だからどこの国がどこから影響を受けたなどといちいち云っていたとてきりがないので、そんなことを云い出せば、どこの国だって必ずどこかの影響なしには国は成り立ってはいないのだ。ところが、ただ僕らに一番不思議なことは、科学という合理性が文明を起してはまたそれを滅ぼして他に移っていくことだよ。三段論法は結局は人間を滅ぼすのだ。」
矢代はもう傍に高のいることも忘れたらしくだんだんと高潮した声で云った。久慈は二人の意志の擦れ違うところを感じまた乗り出した。
「つまり君は、結局非合理を人間は愛しなくちゃならんというのだね。」
「いや、人間から非合理がとれるかというのだ。とるなら取って見よというのだ。」
「じゃ、近代は間違いばかりをやってるというようなものじゃないか。君は近代の間違いばかりを指摘して、これの利益や恩恵を感じないのだ。しかし、近代はもう何んと云おうと近代に這入っているんだから、これの幸福を僕らは探さなくちゃならん。君はその不幸ばかりを探して歩いているのだ。」
「君は合理ということをそんなに尊敬するのか。」
と矢代は悲しそうな声を出した。
「するもしないもないさ。頭と合理だ。政治じゃない。」
と久慈は傲然として答えた。
「そんなら君は、ここのヨーロッパみたいに世界に戦争ばかり起すことを支持してるのだ。合理合理と追ってみたまえ、必ず戦争という政治ばかり人間はしなくちゃならんよ。それは断じてそうだ。日本は世界の平和を願うために、涙を流して戦うというようなことが、必ず近い将来にあるにちがいない。」
高がいるためでもあろうか、このように終りを戦争に結んだ矢代の眼は、きらきらと電灯に光りつつ涙のようなものを泛べていた。がっかりとした久慈は勢いを増した矢代にウィスキーを注ぎ、
「君もカソリックになって来たね。千鶴子さんに伝染ったんだろ。」と云ってひやかした。
「あら。」――千鶴子は意外なときに刺されたものだと思ったらしく眼を見張ったが、かすかに開いた唇の微笑には蔽えない嬉しさが洩れていた。久慈は千鶴子のその清潔な表情に瞬間いまいましい恨みに似た火のゆらめきを感じた。それも、もう真紀子とどうしても結婚しなければならぬのだと思うと、ますます千鶴子が惜しまれるのだった。しまった、千鶴子と結婚しとくのだったと。このように後悔する気持ちが、遽に過ぎ去った船中の思い出をも曳き出し、暫く彼は視線のやり場を失ったが、傍の真紀子にもう気兼ねもなく身体は露わにだんだん千鶴子の方へ膨れ傾いてゆくのだった。
「高さん、もっと召し上れ。昨夜はあんなに上ったじゃありませんか。」
真紀子は高のコップにウィスキーを注ぐと急に自分も高を見詰めてコップを傾けた。すすめられるままに高は黙ってウィスキーを舐めたが、矢代に、
「昨夜はあれからモンマルトルへ行ったので遅くなりました。」と突拍子もなく笑った。
アルコールの廻りも手伝い久慈は制御しきれぬ懐しさを千鶴子に感じるばかりだった。どうしてこんなに思い出が突然噴きのぼって来たものか、夜のピナンの沖に碇泊している本船へ小舟に乗って帰るときの灯火、黒い波にゆれる舷、顔に打ちあたる飛沫を手巾で拭う千鶴子の愁いげな眼――と幻のように南海の夜景が次ぎ次ぎに泛かんで消えぬ楽しみを思うにつけ、あれほど仲の良かった千鶴子とそのまま立ち切れてしまった旅の心の切れ切れな思いを、久慈は継ぎ合せてみたが、もう過去は再び戻りそうにも感じられなかった。
「どうも、おかしいぞ今夜は。酔ったのかな。」
久慈は一寸立ち上ってみた。足がふらふらして赤い絨氈が廻って見える。
「やられた。」と久慈は云ってまた坐ると高に、
「高さん、中国の人は日本人が酔うと馬鹿にするそうですが、日本人は反対ですよ。僕らはすぐ人を信用してしまう習癖があるから、酔うのも早いのです。つまり恩恵を感じると忘恩の徒にはなれないのだな。」
「君は合理主義者すぎるんだよ。」
と矢代は云って久慈のコップにまたウィスキーを注いだ。
「それやそうだ。酒を飲んで酔わないのは、不合理だ。高さん、あなたはフランスへ
前へ
次へ
全293ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング