たのお国の方は、もうそんな必要あまりないのじゃありませんか。」
「いや、そこはまだ分らないところですよ。」
久慈の云うのをすぐ矢代は受けて云った。
「しかし、遣唐使も取り入れるものがなくなった最後のころには、みな堕落して帰って来てるね。日本というところは、そうなるとぴたりと一度蓋をしてこれを固めなくちゃすまぬところだ。日本が中で固める必要の起っているときに、中国はいよいよこれから遣欧使の必要に迫られているときだから、日本と中国との間でごたごたがつづくのだと思う。早い話がまアそう云った二国の相違というようなものを、一番よく知っていて、その差をあれこれするものがここの西洋にはあるのだ。僕らは知られているのだ。」
一同のふとまた黙ってしまったときにコーヒーとウィスキーが下から来た。真紀子は藤色の腕を延ばしそれをみなに配った。幾分とがり始めた男たちの気分もゆらめく真紀子の匂いにゆるみを帯んだ。久慈はウィスキーを取り上げようとしたときに、ふとまた真紀子の投げた枕もとの薔薇の花が眼に映った。さきほどまであれほど合理性の話に夢中になっていたときとて、その真紅の一輪を見ると、突然自分の話のひどく事物からかけ放れていたことに気がついて、ひとり悦に入っていた得度の優越した明るさも、苦笑に似た淋しさに変って来るのだった。
――しかし、合理性を信じることのどこが悪い。これで良いのだ。
とまた彼は思い直して高に対いおだやかに云った。
「日本人のインテリというのは、高さんたち中国の人人や西洋のものが思うよりも、もっと、影響や恩恵を受けたということを感謝し敬愛する風習があるのですよ。ですから日本人は中国へむかし遣唐使を派遣して、文明を日本へ取り入れたというようなことでも、歴史ではっきりこれを書いて感謝をさせることを忘れていないのですね。そこを中国のインテリは、いや自分の方は教えたのだということだけを、いつまでも忘れぬ癖がぬけないんじゃないですか。中国の歴史家は他国から受けた影響を書かない癖が、どうもあるように思われるんですがね。」
久慈の少し露骨な質問に対し高は答え難そうに笑ったまま黙っていた。
「そういうこともあるでしょうが、僕らは東京の学校で習ったのですから、やはり日本は懐しい思い出の国です。西洋で習った人もそれぞれ同じように思っていますから、帰っても、思ったことがそのまま表現出来なくなるのですよ。今はまたそれが一層僕らには難しいときですから、うっかりして日本は良いなど云ってはひどい攻撃を受けます。」
「誰かもそんなことを云ってたな。それだから日本の女は良いと云って、女だけを賞めるのだと。そんなら無事だそうだ。」
矢代の云うのに久慈は真紀子に対い、
「君、聞いた?」
とおどけた風に訊ねた。
「そういうことだけは忘れないわ。」
「女は賞めるに限るとワイルドはいうからね。ね、千鶴子さん。」
と久慈は今まで黙っていた千鶴子を前へ引き出すようにして云った。
「矢代は君のことを賞めたことがないのだが、君も少し賞めさせなくちゃ駄目だな。僕が代りにあなたを賞めてやってるようなものだから、頼りないよ。」
「まだ修養がたりないのね。あたしたち。」
と千鶴子はコーヒーを上げて応酬した。
「修養の不足は矢代の方だ。」
「君だって豪そうなことは云えないぞ。遣唐使も終りのころは堕落したからな。用心をしてくれ。」
久慈は何んとなく矢代がもう今日の自分と真紀子のことを暗に睨んでいるような錯覚に陥りかけ、また視線が自然と寝台の薔薇の方へ向きかかろうとするのだった。
「遣唐使が堕落したのは、そのころの唐が滅亡の前で頽廃していたからだろ。何も遣唐使の方に罪はないよ。」
「ところがそうとばかりは云えないのだ。何んだって唐朝唐朝で、ひどいのは日本の衣物の襟を唐流に右前に流行させたこともあるんだ。新羅の方へいっていた留学生は、これは質実に勉強したらしいんだが、唐の方へ行ったものは堕落したのが多い。子供を造っては次の遣唐使に官費を持って来させたり、身を持ち崩して唐朝の厄介になったり、いろいろしてるよ。円載なんどという坊主は、入唐僧の間でも排斥をくってお負けに帰りに沈没して溺死してる。歴史に現れている人物の名だけでも留学生は百五十一人もあるんだから、この他に三倍はあったにちがいないとして、それなら今のパリへ来るみたいに随分これで堕落して帰ったのもいるんだよ。」と矢代は暗に納めた鋒を出し始めた。
「しかし、そういうのはあながち堕落とはいえないからな。何かそれぞれこれで役に立っているんだ。ただ歴史家が堕落と見てそのように書くから、そういうのは歴史家の堕落かもしれないね。」
「とにかく、現れたままだと堕落もしたのだよ。それも堕落するだろうようにあの当時の長安はなっていて、ただ唐朝の文
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