とき高は家にいなかったから、宿の者の伝言で出て来た高にちがいなかったが、ここに自分のいることも一応は知って出て来たのかどうか久慈には分らなかった。
「ゆうべ矢代があなたにお会いしたとか云ってましたから、それじゃこちらにいらっしゃるとき一度と思いまして、それでお呼び立てしたようなわけです。こちらにはお友達が多いんですか。」
「少しおります。」
高はこのような簡単な返事をするときでも、頭に閊えることが群りよるらしく、ぱッと赧らんだ顔の中から眼がきらきらと強く冴えた。
「あたしフランス語が下手なものですから、高さんにお言伝したの通じないんじゃないかと、心配しておりましたの。でも、良うござんしたわ。昨夜はいろいろ御面倒おかけしまして、――ほんとに久しぶりですのよ。あんな面白い遊びさせていただいたの。」
「僕らの踊りは下手だからな。」
と久慈は皮肉のつもりもなく云った。
「そうよ。久慈さんなんか踊りにもまだ連れてって下さらないんですもの。高さんのはそれやお上手よ。今度またお願いしますわ。あたし下手でお邪魔かしれないけど。」
こう真紀子が云っているときまたドアを叩く音がした。今度は矢代と千鶴子の二人だった。皆初めての者ではなかったので挨拶は簡単にすんだ。椅子が一つ不足していたから真紀子は浴室のを持ち出して来て自分のにあて、電話でコーヒーとウィスキーを下へ頼んだ。五人がテーブルを包み座をそれぞれに定めたとき、暫く妙に白んだ気重い沈黙がつづいたが、久慈は見事にそれも突き崩した。
「高さん、あなた覚えてらっしゃるかしら、沖さんという爺さんが僕らの船のグループにいたの。あの人先日ノルマンデイで日本へ帰ったんですが、帰るとき面白いことを云ってましたよ。僕らはヨーロッパで何をして来たかしらないけど、まア来たからには、何かの意味で遣欧使だから、まんざら役に立たぬこともあるまいというのですね。あの爺さんでもそのつもりなんですから、これで僕らも実はその気持ちにならなくちゃならんと思って、考えているんですが、どうですかね、高さん方、中国の人たちもそんな気持ちは無論お持ちでしょうね。そういう所を一つ今夜はお聞きしたいんです。」
「それはあなたがたより僕らの方がその気持ち強いと思います。」
と高は頬に片手をあてたまま腹部を椅子の背にへこませて答えた。
「それややはり、高さんは日本へ来ていらしたから、よく日本の事情を知ってらっしゃるからでしょうが、しかし、これでどちらも僕らは、難しいところへさしかかって来たものだと思いますね。随分これや難しくなりますよ。政治だけの問題じゃありませんからね。何も政治だけならそうは難しくはならないんだけれども、近代というものには、政治の中に科学という理論が混入して来ているから、――科学だ曲者は。」
「そうそう。」
と高は問題が気に入ったと云いたげに頷いた。
反対に退屈そうにしていた矢代は突然、
「むかしの遣唐使のようにはいかんか。」
と笑って久慈を見た。
「遣唐使だって君、あの時代はあの時代の仏教という論理の究明に行ったんだからね。あのときはあれがやはり科学だったんだ。」
「それやそうだ。あの時代は非合理の合理性を究明する時代だったんだが、近代は合理性以外は捨てる時代だから、東洋の近代人は皆そこでまごまごしてるんだ。非合理を捨ててしまって合理の成り立つ筈がないということを、知らない振りをするのが、学問という誇りになって来たからな。」
矢代のこう云うのに、久慈は云いたいことがもぞもぞと襲って来た。しかし、異国人の高がいるのだと気がつくとやはりその心も抑えてかかるのだった。
「しかし、君これほど進んだ近代がもう一度むかしの非合理を愛するようにはならんよ。絶対にそれや駄目だ。だから政治をどこも誤るのだ。」
「それや君の云うのは立派なものは、立派だ、と云ってるようなものだよ。そんなことを云っていて人間というものは承知出来るものじゃない。だいいち、遣唐使があれほど惨澹たる苦心をして東洋の非合理の究明に行って、それを民衆の中へ植えつけた結果が日本の文明というものになったんだろ。中国精神というものを考えたって、精はこれ神なりというような非合理の合理を根柢に認めてから、それから物や心を考える工夫に進めているよ。日本精神にしたって、これはもう人間という代名詞みたいなもので、頭は一つで眼は二つ、足が二つで手も二つ、精神は神に従うというようなものだから、遣唐使も遣欧使も僕らには必要だったんだ。」
高は矢代の言葉のままに表情を展いたり縮めたりしていたが、最後の飛躍した矢代の諧謔に会うと、声を立てずに笑っていてから云った。
「しかし、中国には近代が少いですからね。あなたのお国のように西洋をまだ採り入れておりませんから、そこが負けています。あな
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