。」とか、「僕は好きだ。」というような言葉にしても、さて日本の婦人に向っては嘘だけ急に飛び出て眼立つのだった。そうかといって、別に久慈は心の表現に困っているわけではなかった。
真紀子はとくからもう久慈の気持ちを察しているらしく、落ちつかなげにあたりを廻っている彼の挙動を見ても、さも知らぬふりで少し俯向き加減なのどかな様子のまま爪を磨いた。
「あなたさっき、何んだか分らなくなったって仰言ってたわね。何んのことだったの。あれ?」
肩を動かさず顔だけちょっと振り向けた真紀子の眼が、ほんの瞬間のことだったがひどくなまめかしい嬌奢な視線だった。
「何んか云ったな。ときどき疲れるとあんなことがあるんだ。今まで分っていたことが、急にぴたりと停って分らなくなるんだね。頭の中の心臓が急に停ったみたいな風になって、中が空になるんだ。」
「神経衰弱ね、あなたも。」
久慈は薔薇をち切ると知らぬ気に後ろから真紀子の襟にさした。
「神経衰弱は卒業したさ。ところが、神経衰弱のも一つ奥に妙なものがあるんだ。そ奴だ。」
真紀子は顎を引き、差された薔薇を見てから、「ふふ。」と軽く笑った。
「じゃ、あなたにも上げてよ。」
真紀子は小卓の方へ立っていって薔薇を折ると、寝台の上に脱ぎ捨ててあった久慈の服の襟へ同じように差し、
「あなたもこれを着てらっしゃいよ。もうそんなに暑くないんですもの。」
と云って久慈の後ろへ廻った。云われるまま久慈は服に手を通した。
「花はいいものだな。花の嫌いなものはあるかね。」
「でも、お茶じゃあまりお花はいけないのよ。」
「お茶か。」
久慈はお茶の師匠にもなれる母のことを思い出し、よくそんなことも母は云ったと思いながら真紀子と向き合って立った。かすめ過ぎる化粧の匂いのままどちらも黙って何をするでもなく暫く立っていたが、そのうちに徐徐に顔が合った。
「一寸、矢代さん、もう帰ってらっしゃるかもしれないわ。電話かけて見ようかしら。」
あまり淡淡としすぎたほどの落ちつきで真紀子は久慈を見上げて訊ねた。久慈はそれには答えずドアの方を振り向いて見ている間に、真紀子はもう電話を矢代の部屋へかけていた。受け答えの様子では矢代は帰っているらしい。真紀子は受話器を置くと、
「いらっしゃるのよ。ここへ。」
と云ってさも何事もなかったように自分の椅子へ戻った。久慈も椅子へ腰を降ろした。真紀子は眼を細め下から覗くように首を傾けて、
「セヴィラへ行きましようね。ほんとうよ。」
「どうも、しかし、けしからんね。矢代の奴。」
と久慈は笑いながら煙草を取り出して云った。
「あ、そう、あなただけお花とってらっしゃる方がいいわ。」
真紀子が腕を伸ばそうとするのを、久慈は肩を後へ引きとめた。
「いいよ。僕だってお花ぐらい貰わなくちゃ、パリへ何しに来たんか分らない。」
「でも、何んだかおかしいわ。また上げますからとっといて下さいよ。」
真紀子は無理に久慈の襟から薔薇をむしりとると、捨て所を索すようにあたりを見廻していてから寝台の枕の傍へぽいと投げた。久慈は白い枕とシーツの間へとまった真紅の薔薇の一点を見ているうちに、何かある清らかな聖鳥を見るような思いに胸がつまって来るのだった。
「よし、分った。」
久慈は思わず膝を打って嬉しそうに天井を仰いだ。
「何に?」
不思議そうに見ている真紀子に久慈は介意《かま》わず、
「得度したぞ。ノートル・ダムのお蔭だ。」
と云ってまた薔薇の方を眺め返した。そのとき、ノックの音がしたが久慈はもうドアの方を向こうともしなかった。心はしきりに弾み上って来るのに爽やかな流れが抵抗もなく胸の底を流れつづけた。
真紀子が立っていってドアを開けたとき思いがけなく外に高が立っていた。
「あら、高さんですわ。あなた。」
と真紀子は久慈の方を振り返ってからまた高に、
「いま矢代さんがいらっしゃるっていうもんですから、矢代さんだとばかり思って――さア、どうぞ。」
久慈は高だと教えられても別に驚きもしなかった。這入って来るものがどこの国のものだって今はもう良いと思うと、淀みのない快活な心が波うって来るのを覚え、握手しながら船中以来の挨拶を高にした。長身に縞のダブルの服を着た高は、幾らか胃の窪んだような姿勢のまま眼鏡の奥で柔かに笑っていた。
「今日はノートル・ダムへ行きましてね。中へ這入ったものだから埃りだらけになりましたよ。えらい埃りだ。」
久慈は高とさし向いに坐り理由もなくいきなりからからと笑ってから、
「どうです、その後御無事ですか。」
と妙に大きな声で訊ねた。
「ええ、丈夫です。」
高は東京にいたときの日本の挨拶を思い出したと見え少し遅れてこう云ったが、どこかにまだあたりを警戒している物腰が笑顔の中に漂った。真紀子の電話した
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