が、そこのテーブルの上のハンドバッグね、それとって下さらない。忘れたの。」
ぱっとまばゆく一瞬の光りを背に、真紀子の顔が湯気を立てて覗いている。ゆるやかに綾を描いて喰み出る湯気の方へ彼は近よった。ハンドバッグを受けとる腕が浴室の腕のようにしなやかに延び、たちまちまたぴたりと戸を閉めた。貝殻の中で伸縮をつづけている柔軟繊細な貝類の世界を見る思いで、久慈はしばらく浴室の戸を眺めていたが、ふとノートル・ダムの石室の中を蠢めきのぼった真紀子の汗ばんだ体の触感も思い出され、今日一日のこの疲れも何か正当な受けつぐべきことを受け継いだ、柔らかな連鎖のその一鎖りだったと思った。
「そんならその貫いてゆくものの中で変らぬ唯一のものとは何んだろう。これこそ変らず滅びない念いというものは何んだったのだろう。」
人目のない浴室で延びやかに立っている真紀子は、恐らくいま鏡の前で化粧をしているときだろう。しかしそれもこれも滅びぬものに較べれば皆夢のようなものかも知れぬ。――
久慈はノートル・ダムの怪獣の空とぼけた笑顔がまたも眼に泛んだ。あの高い所で世紀から世紀へぼろぼろに朽ちそうな肌を笑わせている顔を、矢代に一度見せてやりたかったと彼は思い、そうだ矢代に電話をかけてやろうと思ったが、彼も定めし夢のようなことをしているときだろうと思うと、それも今はやめたくなるのだった。
久慈は時計を見た。十時だった。もう十時なら日本では今正午ごろである。もうやがて眠ろうというのに向うはお昼か。――母親がお茶を立てながら俺に陰膳を供えていてくれるころだ。
ふとそう思うと、久慈ははたとそこで考えが停ってしまった。真紀子もいつかは誰かの母になる人だと思ったのである。何んとなく一番に平凡な考えばかりに突きあたっては戸迷いする自分の精神を、またも幾度となくそのままにさせつづけている自分だと久慈は思い、所詮はこんなところから、訳もなくふらりと真紀子と結婚してしまうのにちがいないとも思われて来るのだった。
しかし、もし真紀子に自分の子供が生れたとすると、何んと自分は冷たい心を持った父親だろう。――
久慈は自分の父を考え、父も今の自分のように人間以外のことに気を奪われていたときもあったかもしれぬと思った。しかし、何んとそれは冷たい心だろう。これは本当か。いや、それも嘘かも知れぬ。
何んでも良い。――よしッ、それでは俺は高有明に会おう。もし真紀子と結婚しなければならぬなら、それもしよう。
真紀子がいつの間に着替えたのかイヴニングで浴室から出て来たのはそれから間もなくだった。
「ノートル・ダムの埃りなかなか落ちないのね。古いからかしら。」
「何しろ七百年の埃りだからな。もう埃りじゃない幽霊だ。」
「でも、あの蝙蝠が顔にあたったときは怖かったわ。ほんとにあたしびっくりした。」
湯上りの真紀子は洋服箪笥の姿見の前に立って髪を直し、それから久慈の傍の椅子へ坐った。久慈は何んとも知れぬ圧迫に似た重い歩みの時間を感じ、ふとそれが通りぬけると急に湯疲れの口淋しい退屈さを覚えた。思わず立ち上ると彼は髪を解きつけた浴室の真紀子の櫛を探しにいった。まだ浴室には匂いの籠った空気がいっぱいに満ちていた。彼は手首と頬とにべったりねばる暖い空気に辟易してすぐ浴室から出て来た。しかし、こんなに婦人の部屋のどこへでも無遠慮に踏み込んで行くことの出来るのも、来た船中のときから一緒だった気軽さのためとも思った。それにしても、その気軽さが却って二人の間をそれ以上の親密さに引き入れぬ妨げともなっているのは、今まで知らなかった互の隙のように思われて来るのだった。
「どうもこの部屋へ来ると、自分の部屋のような気がして困るな。まだこれや、僕たち旅心がぬけないんだね。」
「あたしもそうなの。他人の部屋と自分の部屋と同じように見えるのよ。でも、何んだかこんなの淋しいわね。」
「どっかそのうち旅行に行こう。セヴィラかトレドの方へ一度行きたいんだが。――」
真紀子は眉を上げた。
「セヴィラがいいわ。ね、行きましようよ。あたし、明日からでもいいわ。」
「クックで験べておこう。行くのならイタリアへでもいいが、とにかくパリ祭がすんでからだ。」
久慈はこう云って立ち上ると、何んの意味ともなく花瓶の薔薇の方へ近よっていって頭を跼めた。一度前に彼はこのような同じ動作をして薔薇をち切り、フランス流に語学教師のアンリエットの胸にさしたことがある。アンリエットは日本人専門の案内人もかねていたから、職業上間もなく次ぎから次ぎへと生徒を替え、今は久慈とも放れていたが、ときどき手紙だけは旅行先から来た。今も久慈はそのときのように薔薇を折って真紀子の胸へさしてやろうと思ったが、それも気がさして思いとまった。異国人には何気なく云える、「君は綺麗だ
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