少しも見えずただあたり一角の裏窓ばかり見られたが、この夜はその窓も閉っていた。久慈のホテルの部屋にバスのないのを知っている真紀子は、彼にバスはどうかとすすめたので、彼はそれにも這人って出て来たばかりで、まだ濡れた頭髪も掻きあげたままだった。
 真紀子は彼の次に自分の這入る湯を入れ替える間、久慈とテーブルに向き合い流れ落ちる湯の音に、ときどき聞き耳を立てていた。手首のところに少し人より目立つ初毛の延びたのが、灯影を受けた白い肌のうえで斜めに先を揃えて見える。一重瞼にうっすら影のさしている眼もとに勝気な鋭さの出ているのも、それも動かぬときには、心の流れを他人に知られぬ涼しさだった。
 椅子にもたれて煙草をうまそうに吹かせていても、久慈は東野との昼間の言葉のやり取りから吹き上って来る聯想にまだ悩まされて困った。
「どうも分らん。ノートル・ダムを見てから、頭がへんになった。」
 とこう不意に云って久慈はまた壁の花模様に眼を上げた。
「何が分らないの? 俳句?」
「分らんことばかりになって来た。分っていた筈だったんだがなア。みな分っていたんだ。」
「そんなに自分を失ったの。それは困るわね。」
 真紀子は云い捨てるようにして立ち、バスルームのドアを一寸開けて見た。そして、久慈の後ろに廻ってから寝台の上へ上衣を脱ぎ、
「ちょっと失礼しましてよ。ここの中で衣物脱げないの。暫くこちらを見ないでね。」
 と云いつつシュミーズのままバスルームへ這入っていった。今まで気づかずにいたのに真紀子にそう云われて、初めて匂って来る空気に久慈のいろいろの考えも朧ろに途絶えてしまった。花瓶にさしてある薔薇のあたりから、身動きするごとにかすかに匂いを嗅ぐのも今に限ったことではなかったが、この夜は特に、何かの約束を強いられているように強く真紀子の匂いを久慈は感じるのだった。
「分らなくなったところへ、これか。」
 とこう久慈は呟いて笑った。しかし、そのとき同時に、彼は何もかも分らなくなったとてどこ一つ困ってもいない自分に気がついた。
「そうだ、分らなくたって、何も困らんというのは、これやいったい何んだ。何かここになければならぬじゃないか。そんなら、そ奴はいったい何ものだ。」
 がちりと頭の中で石が音を立てたように久慈の表情は無くなった。
「自分を失ったの、それは困るわね。」
 とこう云い捨てて浴室へ這入った真紀子の言葉が、突然謎めいた色となって久慈に響き戻って来るのを、「何をッ。」とまた久慈は微笑しながら頭の髪を引っ張りつづけた。
 東野や矢代が絶えず攻撃して来る独自性のない自分の欠点や痛さを、全く違った角度から今また真紀子に突かれたように感じつつも、彼はまだ降参出来ぬある観念に獅噛みつづけ、寝台の上の真紀子の服をちらりと眺めた。
「俺の考えているものは、女のことでもなければ、自分のことでもない。まして他人のことなんかじゃ無論ない。分らんのはそ奴なんだ。そ奴が良いものか悪いものか、それも知らぬ。しかし、そんな不必要なことを俺に考えさすというのは、それや何んだ。」
 久慈は頭を椅子の背に倚らせて眼を細め、脱けきれぬ念いを追いつめてゆくうちに、ふと浴室から響いて来る水の流れの音に気をとられた。真紀子は湯から出たのだろうか、這入ったのだろうか。――久慈はさきほどちらりと見た真紀子の手首の長い初毛を思い出した。思いにつれて、ある春の日、箱根の浴槽で自分の横に浸った芸者らしい婦人の堂堂とした白い肌が、水面へ浸る毎に、総立ち上った長い初毛のそれぞれの先端からぶつぶつと細かい無数の水泡を浮きのぼらせていた壮観さが、瞬間浴槽の中の真紀子の姿となり代って浮かんで来るのだった。
 久慈はやがて自分の身の危くなるのも知らぬげに、こうして楽しみ深い幸福に身を任せているのも、ここには恐るべき何ものもないからだと思った。しかし、なぜ真紀子の身体が自分をこんなに牽きつけるのであろう。――久慈は昼間あれほど高有明に会おうと決心していたことも、いつの間にかその考えも消えている自分だと思った。けれども、これも真紀子が電話をかけておいたからには、必ず会うだろうとだけは思い、会って何になるのか分らなかったが、会ったそれだけ何事か起るにちがいないとは漠然と感じられた。
「面白いのはそれだ。何が起るか分らんということだけだ。」
 久慈はそんなに思いながら煙草を吹かしているうちに、ふとまた突然、真紀子は高を愛しているのではなかろうかという疑いが起って来るのだった。もし事実そうだったら、あちらを向きこちらを向くどこに信を置くべきか。――しかし、ただ束の間の幸福を逃さぬため、こうして全網を張りわたして待ち伏せている緊張にも、何んとなく投げ出した手のようなのびやかさを感じた。そのとき浴室のドアが開いた。
「すみません
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