ものは、パリの人間でも恐らく一人もいないだろうな。」
 塩野は願いのかなった喜ばしさに上気して云うと、種材に溢れたあたりの風景の角度を早や急がしそうに見詰め始めた。どの怪獣も欄干や石柱と同じく、朽ちそうな黝ずんだ色に苔まで生えている。剥げ落ちたところもあれば、おびただしい鳩の糞で形の不明になった怪獣もあった。
「もうこれや、考えていられないや。」
 と云うと、塩野はイコンタのシャッタを矢鱈にぱちぱちと切り放した。それもあちらこちらと誰かに追われているような風で、気もそぞろにもう後の三人のいるのも知らぬげだった。
「さア、僕らも俳句だ。」
 と東野も云って裏口の方へ廻っていった。久慈は塩野や東野のようにそんなに熱心になる芸術心は何もなかった。むしろ、こうしてぼんやり街を見降ろしている方に興味があったが、しかし、二人のように夢中になれる何物か自分もほしいと羨ましく思い、また、何んとなく二人の様子を馬鹿馬鹿しくも思ったりしつつもその間に挟まって、取り残されたような脂っ濃い自分と真紀子が淋しくも感じられて来るのだった。真紀子は夕暮に近づいたパリの景色を眺めながらも、もう久慈から放れることが出来ないらしかった。
「ね、これであたしたちのいるここ、どれほどの高さかしら。」
 こんなに訊ねる彼女の眼も、階段を昇った興奮の記憶がまだ影をひき美しく冴えていた。
「あの鐘楼の高さが六十八米あるというんです。ここのお寺はこれで、東京の日本橋みたいにフランス全部の道路の中心標示になっていて、この下の礎を初めて置いたのはモーリス・ド・スリイ司教というんだそうだ。正面だけ造るのにこれで六十年もかかったというんですよ。」
 久慈は足もとを二方から巻き包んだセーヌ河の流れや、その両側のパリの起伏を見降ろしつつ、いつの間にか欄干に両手をついた怪獣と同じ姿勢でいる自分に苦笑するのだった。まことにこの下の街街に荒れ狂っている左翼と右翼のさまを、こうして怪獣の姿で眺めていると、世放れのした気持ちが乗り移り、自然に顔の筋肉も妙に歪むのが感じられた。
「うむ。分るぞ。お前さん。」
 久慈は親しくそう呟きたくなったが、ふと、それより分らぬのは横にいる真紀子と自分の明日からだと思った。とにかく、もうこれは危険な線を飛び越してしまっている二人だった。北塔の方から群落して来た鳩の風が弧線を描いて怪獣の中へ流れ込んだ。と思うと再び、真紀子の首をかすめんばかりに舞い群がって夕日の方へ飛び立ち、ぐるりとまた廻って北塔の方へ散ってゆく。
「あら、塩野さん危い、あんなとこ撮ってらっしゃるわ。」
 真紀子に云われて久慈は見ると、塩野は裏口の方の脆い石の欄干から倒れんばかりに身を乗り出し、眼もくらむ真下の通りへカメラを向けていた。
「あの人、どうも今日は気違いだね。足を掴んでてやらないと、落っこちるぞ。」
 と云って、久慈は塩野の方へ急いで歩いていった。
「もうこれや、フィルムが無くなりそうだ。困ったなア。」
 塩野は久慈を見て一寸笑ってからまた欄干の上へ飛び移って、怪獣の頭の上に留っている鳩を狙った。久慈と真紀子は鳩を逃がさぬように動き停った。
「足でも持とうか。風化してるからごろっといくぞ。」
「そうだな。もう二度とここへは来れないんだと思うと、はらはらしてね。この怪獣だって、後ろから撮った写真は世界に一枚もないんだから、面白くてたまらないんだ。」
 久慈は塩野のバンドを掴んで彼の写真の角度を一緒にすかしてみたりした。絞り十二で五十分の一である。怪獣を撮り終えた塩野は、次に御堂の屋根の中央の所で高く屹立している尖塔の頂きを狙いにいった。ぶつぶつと無数の疣を附けた槍のような鋭い先端に、金色の十字架が夕栄えの光りを受けて輝いている。その十字架を捧げた附け根の所に一つ小さな円球があるが、塩野はそれを指差して云った。
「あの円い中にね、キリストが十字架にかかったとき使った本物の十字架の一片と、茨の冠の本物の切れ端が封じ込んであるんだそうだよ。これを最後にしたいんだが、あの十字架のところへ、うまい具合に白い雲が一つ来てくれんと勿体ないね。どうかな。」
「そんなこと考える方が勿体ないや、撮れればいいさ。」と久慈は云った。
「よし、じゃ、撮ろう。」
 塩野は暫く黙祷していてからぱちりとシャッタを切った。間もなく涙が塩野の眼から滴って来るのを久慈は見た。久慈は全く不意に感動を覚えて夕日の方を向いたまま無意味に歩いた。自分も何かしたい、こうしてはいられない。――久慈はこう思うと、ふとぜひ今夜でも真紀子に高有明を紹介して貰わねばならぬと決心するのだった。


 三階の真紀子の部屋は天井も高く周囲の物音も聞えなかった。蜂の巣のように中に無数の内房を包んで連った建物の、その中の一つのこの部屋から外を見ると、空は
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