の扉をがたがた鳴らせると、これだけは鍵の用なくすぐ開いた。
外のその部屋は石牢より大きな部屋で窓もまた大きかった。ここは窓が閉め切ってあるためか埃りが少なかったが、暑さにむれた黴の臭いで重苦しく胸を押しつける空気が満ちていた。手巾の香水の匂いを振り振り後からついて来た真紀子は部屋へ這入るなり、突然久慈の肩に飛びつき、
「あッ。」
と叫んだ。一同真紀子の方を振り返ると、一隅から飛び立った蝙蝠が壁にあたってばたばたと羽音を立てていた。丁度|蝙蝠《こうもり》の突き衝っている壁の上方高く一枚の額のあるのを久慈は見つけた。暗さの中で埃を冠っているのではっきりとは見えなかったが、何んとなく聖体拝授の儀式絵らしい。
「おお、恐わ。何か出て来たんだと思ったわ。」
真紀子はまだ久慈の腕を掴んだまま青ざめて云った。
「あたし、もう帰りたいわ。何んだかぞくぞくして来るんですもの。」
「しかし、鍵はもう三つも使ったんだから、後二つでしまいだ。二つなら行ってしまおう。恐わけれやあなた僕に掴まってらっしゃいよ。」
久慈は絵の下へ近よって石のざらざらした肌に手をつき、
「どうだ一つ記念にこの額持って帰ろうかね。大司教のいたところだから、この絵必ず名人の絵に定ってるよ。」
「駄目よそんな乱暴な。」
真紀子が久慈の手を後ろへ引きつつ戻ろうとしている間にも塩野だけは、未開の境地を突進するような執拗な眼つきで、早や次の鉄の扉の鍵穴に鍵をさし込み、ひとりがちゃがちゃと鳴らせていた。しかし、その扉の固さは蹴りつづけ押しつづけても開かなかった、蝙蝠だけ扉へぶち衝る塩野の肩の鳴る音にびっくりして、皆の間を馳け廻ってはまた壁に翅をぶっつけた。いつまでも扉が開かぬと塩野と東野も束になって扉にあたった。すると、きしみながら僅に扉の開いた向うから、急にぱっと西日が眼を射した。そこは外郭だった。こちこちに固った鳩の糞が一面|堆《うずたか》く積っている。
「ほう。ビクトル・ユーゴー、ここへ来たにちがいない。背虫男の好きそうな所だなア。」
塩野は鳩の糞を靴先でつつきながら、
「しまった。懐中電灯忘れたのが、何よりの失敗だ。」
としきりに残念がりつつ、今度も真先に外郭をずっと裏口の方へ進んでいった。そのうち行く手が石の廻り階段になった。十三世紀特有の眩暈のしそうな石段は、もう烈しい腐蝕で靴をかける度びに破片がぼろぼろ崩れ落ちた。またそこは高い上の方に、小さな空気抜きの穴がところどころにあるきりなので一層暗かった。石壁を手と足とで擦り上らねばならぬ。
「しまったな。懐中電灯忘れるなんて、しまった。」
とまだそんなに口惜しがっている塩野の声が、もうよほど上の方でする。真暗なうえに真紀子を曳いて昇らねばならぬから、久慈は息苦しさにときどき立ち停った。東野は俳句の種を探しているのか、前から黙黙として一言も物を云わず、厭そうな顔をしているだけだった。空気抜きからかすかに光りの射し込んで来るところは、互の顔もおぼろに見別けられたが、暗くなって来ると真紀子は、
「恐いわ、恐いわ。」
と云って久慈から放れなかった。手探りで廻り昇るため方向の変り日毎に二人は突き衝ってばかりいた。石の古さの発散させる強烈な酸性の臭いに充ちた闇の中では、うっすらと汗を含んで蠢めく真紀子の体の温みは、死を貫きのぼって来る生き物の真っ赤な美しさに感じられた。
「どこまで昇ったらいいんだ。まだか。」
と久慈は上を仰いで塩野に訊ねた。そんなに訊ねている間にも真紀子と久慈の昇る力が喰い違った。二人が蹌踉めいて壁に衝きあたるときにも、脆い石の肌がぼろぼろ首筋へこぼれ落ちた。
「まるでこれや、歴史みたいだな。」
と久慈は闇の中で呟いて笑った。
「だって、恐いのよ。あなた見えて? あたしちっとも見えない。」
上では昇りつめたらしい塩野がもう扉にぶち衝っている音がしていた。五つ目の最後の鍵を廻す音も同時に聞えた。
「早く来てくれエ。固い固い。錆びてやがる。」
塩野はそんなに云いながらまたどすんどすんと体当りをしつづけた。皆が上へ昇り着いたとき塩野はいら立たしそうな声で、
「どの鍵も合わん。ちぇッ。」
と云って、滅茶苦茶にがちゃがちゃと鍵を廻してはまた別のを嵌めてみた。
「駄目かな、これや。」
下唇を噛んだまま手を休めて暫く扉を無念そうに仰いでいてから、彼はまた狂ったように扉に突き衝った。すると、永らく風雨に閉じ詰っていた扉は下に鮮やかな新しい条目を印けて開いた。初めて生きた気流に触れた爽爽しさで外郭へ立って見ると、ここは丁度御堂の真上の屋根のうえで鐘楼の下であった。怪獣が欄干のいたる所にたかっている。馬、熊、鳥、兎、鹿などの変態が、戯れた鬼のような容子で、のどかにパリの街を見降ろしながら遊んでいる。
「ここへ来た
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