、俳句は花鳥風月というような自然の具体物に心を向けるといっても、その精神は具体物を見詰めた末にそこから放れるという、客観的な分析力と綜合力がある。そんならここに初めて科学を超越した詠歎の美という抒情が生じるわけだ。しかし、抒情が生じただけではまだ完全な俳句とは云い難いので、さらに転じて、どのような人間の特質の中へも溶け込む、いわば精神の柔軟性という飛躍が必要だ。踏み込みだ。」
「おかしいな。そこが分らん。」
と久慈は呟いて俯向いた。すると、東野は、暫く久慈の顔を見詰めていてから、物も云わずいきなり久慈の足をぐっと踏みつけた。
「痛いだろ。」
「痛い。」
「つまり、そんな風なものさ、この痛み、どこより来たる。といった風な疑問に還る精神が、俳句だ。」
「禅坊主だね、あなたは。」
と久慈は云って突然空を向いてあはあはと笑い出した。丁度、こうして皆の笑っているところへ、顔を充血させた塩野が上着の下へ片手を突き込み、足もとから鳩を吹き上らせて、
「しめたッしめたッ。」
と叫びを耐えた声で馳けて来た。首でもかき取って来たような様子である。
「婆さんとうとう、貸してくれたぞ。一日千秋の想いを達した。これだ。」
塩野は人に知られぬようにあたりを見廻してから、上衣の下から大きな鍵を覗かせた。錆びの這入った、長さ五六寸もあろうと思える五本の鍵が蒲鉾《かまぼこ》板のような板の一点に、それぞれ紐で結わえつけてある。久慈は、塩野の脇腹からちらりと眼を開けたパリの歴史の首を見た思いで、瞬間ぞッと鬼気に襲われ我知らず周囲を見廻して黙った。
「今日はこれや、死にそうだ。君たちも来てくれないかな。」
興奮のため幾らか青くなって来ている塩野に、
「よし、行こう。」
と久慈は云って立ち上った。
「三時半ごろになると事務所のものがいなくなるから、そのとき注意して行けと云ってたが、もう良いだろうな。」
「見られたってかまやしないさ。キリストに君は招かれたんだよ。」
久慈は躊躇している真紀子に、
「あなたもいらっしゃいよ。千載一遇の好機だから、僕らも中で俳句を作ろう。」
「だって、恐いわ。そんな所。」
尻ごみして進まぬ真紀子の腕を久慈は捕え、塩野のあとから裏門の方へ近よった。裏口から四人は中へ這入ると掃除のしてある部屋が二つあった。そこを通りぬけて階段を一つ上った二階のところにバルコンが見えたが、そこから塩野は、角度を選んで裏口の写真を四五枚も撮った。バルコンの次ぎに大広間が拡がっている。それを横切って階段をまた昇ると初めて三階に出た。一同を喰い止めている鉄の扉のあったのもそこだった。その扉も鍵を合すと無造作に開いたので、そとへ出られるらしい気配のまま歩いているうちに、いつの間にか正面の『諸王の廊下』へ出てしまった。
「何んだ、これや俳句にも写真にもならんじゃないか。」
と久慈は云って引き返した。すると、また一つ別の鉄の扉に出くわした。これは固く錆びついていたが、力を籠めて押すとぎいぎい重い音をきしませて開いた。扉の向うは通路になっていてもうここからは暗く、石の冷たさがひやりと頬にあたって来た。塩野は、
「そろそろ怪しいぞ。」
と云いつつ首だけ突き込んでみていてからそっと中に這入った。そこも別段変った所もなかったが、通路の端の所にまた一つ扉があった。塩野は手で撫で擦りながら鍵穴を見つけた。この扉は一番固くて鍵を廻しても廻しても容易に開きそうもなかった。やむなく久慈と二人で肩を揃えうんうんと気張っているうち、ようやく幾らか開いて来た。すると塩野は悲鳴のような声で、「牢屋だ、ここは。」と云ったまま立ちすくんだ。
一層冷たくなった石壁の上の方に、横二尺縦五寸ほどの細長い窓が三つあるきりで薄暗い。染みつきそうな黴の強い臭いの襲って来る中を三二歩四人が中へ這入り込んだ。暗さで初めは分らなかったが、ふと久慈は足もとの柔らかさに俯向いて見ると、暗灰色の埃りが三寸ばかりの厚さで一面に溜っていた。
「これはどうだ。人知れぬ埃りだな。」と久慈は云った。
まったく誰からも忘れられてしまって、こうして佗しい年月の埃りを降り積らせていただけの部屋を見ると、急にどきんと胸の中で鳴り進む精神を見る思いで、陰に籠って響く自分の声にも、精霊の巻きつきそうな冷たさを久慈は感じた。歩く毎に死の臭いを吸い込むような無気味さである。前方に扉が見えていても、荒涼としたこの部屋に這入ってはもうそれ以上進む気持ちがなくなった。
「東野さん、どうです。まだだいぶあるらしいが、全部行きますか。」
と久慈は薄暗がりに浮いている東野の顔を見て訊ねた。
「君たちもう帰ってくれ給え。何んでもこの鍵全部使うと、上まで出られるようになってるんだそうだから、僕だけは一寸行って見て来る。」
塩野はそう云って次
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