。やられたことがあるんですか。」
「前に少しばかり。」
と真紀子は遠慮勝ちな声で云いながらも、久慈にひやかされはすまいかと、同時にちらりと彼の方もうかがった。しかし、久慈は東野の感想が耳新らしく響いたので、ゴシックと俳句精神の似たところを、なるだけ彼から掘り出して訊いてみたいと謙遜な気持ちになるのだった。
「このお寺はいつごろの産かしら、十四世紀?」
「十三世紀だね。だからまア源平のころだろ。近代のまだ全く生じていない、西洋というものの純粋の形がこれだな。全体の精神が、空を向いている秩序で維持せられているでしょう。けれども、その秩序を造っている精神の合理性が、対象となるべき空を規定しているといっても、よくよく見ると、空から下に向って延びている非合理な必然性にまで、ちゃんと独自性と自立性とを与えているよ。あの沢山な翼の姿がそうだ。おのおのの目的の含む生命力というようなものの意志を尊重して、その非合理の秩序さえ立派に一つの理念としているのは、全くこれや素晴らしいものだと思うな。」
聞いていると、東野は自分の頭の中の構想でお寺を見ているように、久慈には思われて来るのだった。東野ともよくこの寺院について議論をしたらしい塩野は、異議ありそうに笑いながら久慈に云った。
「東野さんの説は新説だから、よく覚えときなさいよ。僕と東野さんは春のぽかぽかするころ、ここの北塔の一番上の鉛の敷いてある部屋の上で、よく寝転んで日向ぼっこしたんですよ。あのころは良かったなア。下のお堂から、弥撒のパイプオルガンが静かに響いて来るし、聖歌を枕にしてるみたいで、うっとりいい気持ちに眠くなるし、セーヌ河が真下で木の芽を吹いているしね。それやまったく、ここの塔の屋根の上は、パリ第一等の眺めだ。」
「だって、ここは国宝建築物だから撮影は禁止だろ。」
久慈は大胆な塩野にも驚いたが、また彼の苦心のほども察しられて訊ねた。
「それや参観人の通れるところだけなら、三フラン出せば撮れるんだ。それでも大部分は禁止区だから困ったのだよ。門番の婆さんに、このお寺はパリの歴史そのものみたいなものだから、各国へこの燦然たる文化の象徴物を紹介しないというのは、けしからんと云ってね、おだてたりすかしたりの最中だ。また事実そうだよ。これだけの立派なものを、隠して置く手はないからな。これで門番の婆さんと親しくなるのに、僕は来る度びに果物を届けたり、チョコレートの贈物をしたり、だいぶ無い金を使わせられた。婆さんの娘の子が肺病で入院してるもんだから、この娘にまで贈物をしなくちゃならんのだ。弱った弱った。」
「じゃ、もう随分お撮りになったんですのね。」
と真紀子は初耳のように感心して訊ねた。
「いや、外だけ二百枚ばかりです。一般の通路は平凡で、写真にならんのですよ。禁止区にばかりいい所があるもんだから、今日もこれから一つ婆さんにこっそり頼んで、裏門から中へ這入る鍵を借ろうと、実は謀らんでるところなんです。事務所へ行っても、一ぺんに断られたんですよ。婆さんもなかなか落ちん。」
「苦労だね。しかし、そいつは駄目だろ。」と久慈は云った。
「お堂の中を分らんように、お祈りしてるようなふりをして、やっと三枚とったことがあるが、何しろ暗い上に十二に絞って、四十秒の手持ちだからみな駄目さ。裏門からは婆さん十五年も門番をしていて、一度もまだ這入ったことがないのだそうな。恐らく一人も這入ったものはいないだろうと、婆さんは云うんだがね。そこを何んとかして一つと、虎視眈眈としてるんだ。」
「それや、あそこなら化物が出るぞ。」と久慈は笑って云った。
「出るかもしれんね。怪獣と棲んだ背虫男の幽霊ぐらいはいるだろうな。じゃ、一寸行ってみてくる。」
塩野の姿が門の方へ消えたとき、不可能な企てに憑かれてしまっている彼の熱心さをまた三人は笑った。
「ところで、東野さん、さっきの俳句とノートル・ダムの関係は、どうなったんですか。そこが一番聴きたい所だな。」
と久慈は半ばひやかすような口ぶりで催促した。
「ああ、それか。それはなかなか難しいぞ。このノートル・ダムはパリの伝統を代表してるものだし、俳句は日本の伝統を代表したものだからな。」
「だから真面目にあなたの解釈を聴きたいんだ。反抗はしませんよ。今日はもう柔順になる。」
「ノートル・ダムの精神はもう云っただろ。俳句精神というのも、それと似たりよったりさ。つまり、この建築の対象は空だ。しかし、俳句の対象は季節だ。季節といっても、春夏秋冬ということじゃない。それを運行させているある自然の摂理をいうので、つまり、まアこれは物と心の一致した理念であるから、神を探し求める精神の秩序ともいうべきでしょう。ここに知性の抽象性のない筈はないので、それがあればこそ、伝統を代表しているのだから
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