ムの尖塔が見え始めるとそれもすぐ忘れたらしく、サン・ミシェルの坂の方へ出ていった。通りへ出たとき真紀子は手帖と鉛筆を買いに文房具店へ這入った。塩野がノートル・ダムを撮っている間、下の庭で句会をやろうと云って久慈も手帖を一緒に買った。すると、丁度云い合せたようにその家のすぐ横の本屋の店頭高く、松尾邦之助訳の芭蕉の句集が積んであった。
「君、二百年も経つと、芭蕉もこんな所へ出るんだね。」
 と東野はこれには感動した様子でその句集を手にとって眺めていた。
「ほう、サン・ミシェルのカフェーもみなストライキだな。これは驚いた。」
 逆さに椅子をテーブルの上に積み上げたあたりのカフェーの蕪雑さを眺めまわして塩野は云った。ストライキの話になると、東野と久慈との間がいつも険悪になるので、久慈も遠慮をしいしい俳句の話を出す時分だと思った。しかし、話が俳句のこととなると、知るも知らぬも、どうしてこんなに皆の心がにこにこと柔ぎそめるのか、妙な日本人の体質だと久慈は今さらのように首をひねるのだった。


 ノートル・ダムは坂を下ってからすぐ右手の、セーヌ河に包まれた島の中にあった。ここは先住民族のバリサイ人が棲んでいた理由で、パリの名称の起りをなすとともにまたパリ発祥の地でもある。ノートル・ダムは最初一見したときには、方形の時計台を二つ合せたような単調な姿だった。頂き近く菊花の弁を一二少くしたのと同じ紋章が、その形の単調さに威を放ち巷の塵埃をふき払う。近づくにしたがって、方形は驚くべき複雑精緻な変貌を重ねて来て、正門の扉のキリスト像、その右手の聖アンナの門扉、左手のマリヤの門と並んだ三つの門の、その真上のところ一列に、イスラエルとユダヤの諸王、二十八王の彫刻の立像がそれぞれの風姿をもって克明に浮んで来る。さらにその上の円窓に描かれたステンドグラスのロザスの美しさ、また一層上の柱列は、人体の解剖図に似た脊柱の周囲の整然たる管状の立体化となって、ノートル・ダムの怪獣を支えている。また一度び横へ廻れば、胴から延び下った両翼の姿の繊巧無類なある緊張、その優雅さ、――久慈はあらゆる運動態の原型がここに蒐ったかと思ったほど、全系列をささえた稜線の荘重で、雄勁果敢なおもむきに我を忘れて見惚れていた。
 このルネッサンスに反抗したゴシックの美しさは、それはたとえば何んと云えば良いだろう。久慈は、魚の肉をしゃぶり取った骨骼の強く鋭敏な美しさを想像した。一つ間違えば、空中から落ちる鳥類のあの典雅なほどに華奢な儚ない骨をさえ聯想した。
「そうだ。たしかにこのあたりは、これは生物の骨骼をモチーフとして設計されたに相違ない。」
 このように久慈はひとり呟きながら、遠ざかり、廻り、翼から胴、胴から塔へと視線を移して眺めたが、塩野がこれと取り組む願いを起したとは、相当以上の大決心にちがいないと想像された。
「ね、君、これをどこから手をつけようと云うんかね。一生かかったって、この構成の美はなかなか容易なことじゃないぞ。」
 と久慈は外庭のベンチに腰かけて塩野に云った。
「僕がここを撮る気になったのは、正門の扉にキリストの浮彫があるだろう、あれが西日を横に受けて生きてるように見えたからなんだ。ソルボンヌの講義からの帰りに毎日験べたんだが、生きてるように見えるのは一日のうちで二十分ほどよりないのだね。それを撮りたいのが病みつきで、全体の新しいカメラアングルの美を何んとか一つ、再現してみたいと発心したんだが、どうもそれがね。」
 塩野はベンチに並んでいる東野と久慈と真紀子の前に突き立ったまま、さっそく撮りにかかろうともせず、もう幾十回となく手がけたこの寺院の陰翳を微笑のまま見上げていた。東野と久慈は隣り合せに腰かけているものの、どちらか一つ感想を口に出せば、忽ち意見の衝突で捻じ合う危惧を感じ、顔を合さず黙っていた。無数の鳩が羽音の旋風をたてて廻っているのを、その方向に真紀子は顔を向けつつ句をひとり考えているらしかった。
「どうです東野さん。俳句でも作りましょうや。」と久慈は云った。
「まア待ちなさい。この建物、見れば見るほど俳句に似て見えて来るんだ。妙なものだなア。」
 と東野は足を組み替えてまた仰いだ。久慈はにやりとしながら、
「これが蛙飛び込む水の音かね。」と云って笑った。
「空の音だよ。僕はこれまでゴシックのお寺を沢山見て来たけれども、どれもみな垂直性ばかり重んじているのに、ここのはそんな精神の偏見がない。翅となっている斜線がそれぞれ本態から自立して横の空間の意識を満足させているよ。何んとなく、雪の結晶に似てるじゃないか。」
「あたしもさきから、日本の生花の立花と似てるように思ってましたわ。」
 と真紀子は東野に云った。
「そうそう、立花とはうまいなア。あなたは俳句はお上手でしよう
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