いて笑っている顔を見ると、
「何んだ。朝帰りが戸袋蹴ってるみたいな声出すな。」と云って笑った。
「ふん、猫がいくらガラス箱へ爪立てたって、駄目だよ。」
「おい、勘定。」
塩野はもうその場に耐えかねたらしく財布を出して立ち上った。そして、自分の金だけ払って外へ出ていこうとする後から、
「おい、塩野君、塩野君、一寸待ちなさいよ。」
と久慈に呼びとめられた。しかし、塩野は、
「ノートル・ダムだよ。後からでも来なさい。」
と云って戸口から遠ざかった。久慈は自分も勘定を払って真紀子に、
「ノートル・ダムへ行こう。あそこの方が白系よりやいいや。」と云って東野を一人残し塩野の後から出ていった。
「よし、僕も行くぞ。」
東野も身を起して財布を出した。ロシア人のボーイたちは習い覚えた片言の日本語で、
「サヨウナラ。」
「コンニチハ。」
と一同の出て行く後姿に向って挨拶した。丁度このとき、通りを来かかった政府の罷業委員が二三の部下をつれて店の前で立ち停った。そして手帳をくっては、命令に従わぬただ一軒のこの家の窓ガラスを見ていてから組合加入の証の張りついているのを認めると、渋りきった顔のまま仕方なく店の前から立ち去った。
ルクサンブールの公園の中を突きぬけて行くうちにしきりに樹の葉が散って来た。大輪の薔薇を揺っている雀の群れのうえ高く鳶が円を描いていた。並んだ黄色い乳母車から放れた赤ん坊がよちよちした足で雀の後を追っている。久慈は東野との争いもいつの間にか忘れ肩を並べて歩いていた。ゆるやかな芝生のカーブを背にしたベンチで、まだ少年の名残りをとめた青年が美しい女学生の肩を抱き、何事かしきりに弁明をしていた。女学生は不機嫌な顔で足もとの鳩をじっと見詰めたまま返事さえしないのを、しつこく青年は繰り返して娘の心を牽きつけるのに余念がなかった。一見して久慈は、嘘を真事らしく告白している男の表情を見てとった。青年はさもくたびれたという様子でふと横を見て一服してから、また急に思い出した風にとぼけた顔でかき口説き始めた。暫くすると、まんまと娘は男の言葉に乗って身をよせかけ、どちらからともなく二人は一つにより塊った。
「ああ、不幸が一つ増したぞ。」
久慈は日本語でそう云いながらその前を通りすぎた。
「あれか。」
塩野は振り返ってベンチを見た。
「なぜあの嘘が分らんのかね。それともあれでいいのかな。」
「分ったら台なしだろ。」と東野は云った。
「そうだ。記念に一つ、写真を撮っといてやりなさいよ。」
と久慈は塩野の肩をつついて笑った。
「溜らんね、そう勘が早くちゃ。日本人は芝居が下手い筈だよ。」
塩野は笑いながら繁みの中を、ジョルジュ・サンドの彫像の方へ先に立って近よった。お下げに髪振り分けて肩に垂らしたサンドの前に、小径をへだて、猪首のスタンダアルの横顔の浮彫があった。その二人の像の間で東野は、
「これや、どっちも十九世紀初頭の猛者だったんだが、そんなら僕は一つ俳句を作ろう。」
と云って真面目に俯向きながら考え込む様子だった。久慈も東野に俳句の手ほどきを習ったこととて、ふと思わず釣り込まれて自分も句作する気が動き、そこに立ち停るのだった。
「俳句なの?」
真紀子も面白そうにサンドの彫像をあらためて眺めてから、
「この方、別れの曲でショパンとどっかへいらしたあの方でしょう。」
と東野に訊ねた。
「そうです。そのとき、こっちのスタンダアルはイタリアで領事をやっていたんですよ。」
東野はスタンダアルの彫像の丁度後ろの方に立っているフロオベルの立像の方へ近よっていくと、科学者のように威めしく跳ねた大きな髯を仰ぎつづけた。
東野は十九世紀初頭のフランスの文豪たちの、ずらりと並んだ彫像を眺めていても、別に何んの感動も顕さず、誰より先に公園の出口から出ていって、左側にある公衆便所に這入ってしまった。久慈や塩野が公園の外へ出てから暫くして、東野は便所の中から出て来た。そして、
「一つ出来たぞ。」と明るい笑顔で久慈に云った。
「僕のお師匠さん、便所の中で作るんですかね。どんなんです。」
東野は頭を一寸ひねってから、
「日の光り初夏傾けて照りわたる。」と呟いた。
「何んだそれや、お経じゃないか。」
と久慈は大きな声で笑い出した。
「ノートル・ダムへ行くのなら、お経一つぐらい唱えなさい。」
「それや、たしかにそうだ。僕の写真機は、これやお経の眼玉だからな。」
と塩野は塩野で一寸自分の手擦れて汚くなったイコンタを上げて眺めてみた。
「君にもやっぱり写真機お経に見えるのか。」
と久慈は不用意に塩野に訊ねた。
「定ってるじゃないか。やたらにこのシャッタ切れるかい。」
写真を芸術だと思わぬ久慈の口吻に、塩野はきっと対抗した気構えを見せたが、ノートル・ダ
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