にやにやしながらスープを出さなかった。
「おい、スープ出せ。」とまた青年は命じた。
 前には自分の下だった男ながらも今はお客だから仕方なく店の者はスープを出したが、沢山の使用人らは動きを停めて一斉にその青年を見詰めていた。ある者は怒ったような眼をし、ある者は羨望の表情をしていたのを久慈は記憶している。
 一列に並んでいる久慈や塩野は店が店であるだけに、外で暴れ廻っている左翼の風波については話さなかったが、次第に傾きかかろうとしているこの一家の静けさが、使用人たちの云うに云われぬとぼけた顔色に顕れているのを誰も見逃しはしなかった。
「それはそうと、日本と中国の問題、大使館の方はどんな観測かね。」
 と久慈は塩野に訊ねた。
「それが油断がならぬらしいんだ。もっとも僕はただ手伝いだけだから、委しいことは知らないんだが、だんだん険悪になるばかりらしいんだ。とにかく、遠からず始まることだけは確かだろうな。」
「しかし、こっちだって相当に危いね。この模様じゃ。」
「そうだ。どっちが先きかというところをお互に知ってるから、これで案外自重はするだろうが、しかし、戦争が起ったら、僕は写真師だから、誰より真っ先に飛行機に乗せられて戦場へやられる。そのときは、諸君より一足お先に僕は失礼するよ。」
 こう云って塩野は敬礼の真似をしながら快活に笑った。久慈は塩野のその覚悟の美しさに瞬間はッとなったが、事態はそこまで自分にも迫って来ているのかと思い吐息をつくと、しばらく黙って赤蕪を噛っていた。
「吾人は須らく現代を超越すべし、というわけにはいかんのかね。ここの家みたいに。」
 久慈のこう云うのに突然横から東野は頓狂に笑い出した。
「それや真面目だよ。久慈君、寄附金の箱があそこに下ってるじゃないか。」
「いや、あれは空だ。」
「しかし、横になってるぞ。」
 またどっと四人は笑ったとき、その笑い声の中で久慈だけ誰よりさきに暗い表情に変っていった。
「東野さん、あなたはこの間から、僕ばかりやっつけるが、どうしてそんなに僕が気に食わぬのです。」
 と久慈は東野の方へ向き変って詰問の調子だった。
「それや、君があんまり現代を超越しないからさ。」
「いや、もっと大真面目な話でですよ。」
 なるだけ争いを避けるつもりで云ったにも拘らず、久慈の言葉は強かった。
「冗談じゃない。日本人は誰だって、一度は現代を超越してしまったのが伝統なんだから、僕の云うのが冗談に見えるんだ。」
「それやそうだ。超越してから後の問題が、僕ら日本人の問題だ。」
 と塩野はもう笑わず、心にかかっていた疑点を晴らしたらしい口振りでスープを飲んだ。
「しかし、現実じゃ、僕らはそう無暗と超越するわけにはゆかんですよ。そこが苦しみという奴じゃないか。」
 塩野の方へ向き返った久慈は、一層強い調子になってスプーンを振り振り、
「そうでしょう。日本人の伝統が、かりに現実を超越したものだとしたって、西洋から這入って来たものが超越したものじゃないなら、僕らは知らぬ顔の半兵衛出来ますかね。出来なけれや。どっちもの最小公約数というものは、大切にしなきゃならん。これを大切にせずに、僕ら近代人に何んの誇りがあるというのだ。何んの意義があるというのだ。」
「しかし、最小公約数の単位は一だ。一の質がどこだって違ったらどうする。」
 東野は塩野へ詰めよった久慈の質問を横取りして云った。すると、久慈はもう何もかも忘れたように前のめりになって上気しながら、また東野の方へ向き返った。
「一の違う筈がない。一が違えばここから出て来る抽象性というものは皆違う。それなら世界は成り立たん。一とは自我だ。自我を信用せずに、何をいったい僕ら信用するのだ。」
「君は自我より一の方を信用してるのだよ。もし自我を真に君が信用するなら、日本人という自分を信用するに定っているのだ。ところが君は、日本人を信用したことがない。公約数ばかしを信用して、それが自我だと思っている。そんなら、君の自我はどうしたんだ。君の中の日本人はどうしたのだ。」
「僕は日本人ならこそ一を信用するのだ。一に信頼を置かぬ日本人なんか、日本人じゃない。」
「そんなら、一と一とよせるとなぜ二になるのだ。」
 いつもの東野の癖の突然飛び越した質問に、久慈は彼の顔を見たまま暫く答えることが出来なかったが、にやりと笑うと、
「何んだそれや。」と呟いた。
「何んでもないさ。尋常一年生だって出来ることだ。一と一とよせるとどうして二になるのかというんだよ。二にするものが君の中にあるだろう。その、するものが自我じゃないか。これは一でもなければ二でもない。子供だけは欲しいというものだ。」
「そんなもんいらんよ。」
 馬鹿馬鹿しさに久慈は大きな声を出して笑いながら椅子の後へ反り返った。東野は久慈の大口開
前へ 次へ
全293ページ中90ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング