こう矢代はひとり呟きながら膝を揃えてまた匂いを嗅いだ。頭の心が急に突きぬかれていくような酸素の匂いで粛然とした気持ちが暫く二人を捕えて放さなかった。


 着替える真紀子を待って久慈がホテルを出たころは、もう正午近かった。道路に開いたマンホールからむっと生温い炭酸瓦斯が顔にあたった。歩く足もとの壁の空気抜きからも、地下室の冷たい風が不意に吹き上って来たりした。
 食事場へ行くのに久慈は裏路を選んだので、日光のあまり射さぬ傾いた石壁の間の通りは、駄馬の蹄の音がかたかたと強く響いた。売れ残った青物の萎びたのが荷車の上で崩れている。
 久慈も真紀子も、昨夜はどこへ行ったかなどと訊く詮索癖など、いつの間にかなくなってしまっていた。互に心に想うことは、まるで別のことだという一点だけ知り合っている二人のように、何か足もせかせかと早まって動いてゆくのだった。
 剥げ落ちた壁の向うから羽根まで黒い雀が飛び立った。その後に、火の消えた瓦斯灯と枝を刈り落した坊主の樹が立っている。久慈は鋪石の上へゴム管から水の流れ出ているのを飛び越え、ずるりと靴の辷るのを危く踏みこたえたとき、初めて真紀子を見て笑った。
「辷るよ、そこ。」
「そう。」
 二人は機嫌が悪いのでもない。どちらか物いう方が負けだと思う気ぐらいが、理由もなくただ神経に映り合っているだけだったが、なぜまた御機嫌を取り合わねばならぬのか考えればいまいましく思う今日の二人だった。
「昨夜、高さんに会ったんだってね。」
 と久慈は真紀子を振り向いて訊ねた。
「ええ、オペラで会ったの。」
「踊りに行ったんだって?」
「ええ、モンマルトルへ行ったの。」
 隠すかと思いのほか意外に真紀子ははきはきと答えるので、少し閊えていた久慈も急にほぐれ始めて元気になって来るのだった。
「高さん、遊びに来ないかな。いろいろ、中国のこと、訊いてみたいことも、あるんだが。呼びなさいよ。」
「いつでも来るわ。あの人、お呼びしてもいいなら、電話をかけてよ。」
「じゃ、頼もう。」
 真紀子と高との間で、昨夜どのような事があったのかもう久慈は考えるのはうとましかった。壁に蔦の巻き絡んだ家の角を曲ったとき涼しい風が吹いて来た。すると、その風の中から出て来たようにカメラを下げた塩野が向うから歩いて来た。いつも日本人の行く所は定っているので、会い始めると日に二度三度と会うことはここでは珍しいことではなかった。
「しばらく。」
 久慈はとかく紳士を気取りがちな十六区の日本人とは放れていたが、この塩野には特に十六区の臭いがなく、礼儀だけは正しいので彼は好んでよく遊んだ。
「写真を撮ろうと思ってぶらぶらしてるんだが、どこもお茶を飲ましてくれない。このへんにどっかないかな。」
「じゃ、いよいよやったな。ドミニックへ行こう。あそこなら大丈夫だ。」
 久慈は近くの白系露人の経営しているドミニックの方へ歩いた。そこは帝政時代の伯爵一家の店だったが、スープが美味くて安いので、金が無くなると久慈たちのよく行く家である。
「通りはどこもみな休んでるの。」
「すっかり閉店だ。これからノートル・ダムへ行って、あそこを今日は一日がかりで撮ろうと思ってるんだ。」
 写真専門の塩野は、ノートル・ダムに全精力を打ちあげていることを前から久慈は聞いていた。ドミニックへ行くと食事場に困ったものと見えて、もう東野の退屈そうな後姿が腰かけていた。久しぶりの敵の姿を見つけたように久慈は後ろから東野の肩を打った。東野は振り仰ぐと、「やア。」とも云わず、にたりと笑ったまま黙っていた。塩野は久慈よりも東野との方が前からの交際であったから、真紀子だけ久慈は東野に紹介しかけたとき、ふと塩野も真紀子と初めてのことに気づいて彼にも紹介した。
 四人は細長い食台に一列に並んでそれぞれ食べたいものを註文した。見渡したところ、いつもとこの料理店は違わず働いていたが、窓の外いちめんの左翼の大海嘯のまっ只中に突き立っているさまは、ただのありふれた日常の生活ではなかった。いつも黙黙とした品位のある老齢の伯爵夫人は、カウンタアの所に坐ったまま笑顔を人に見せず、また誰とも話をしなかった。頭の上に帝政復興の寄附金を集める箱が傾いてかかっている下で、ボーイの立ち働く姿を見ながら、少しでも使用人の袖口から襯衣が出すぎているのを見附けると、夫人は黙って指差して直させた。使用人の中のロシア革命を見て来たものたちは忠実に働いたが、パリの風に馴染んだまだ若いものたちは、一家の裾を濡らすように下から上へと色を変えた。
 あるとき、ここに使われていた二十二三のボーイで、反抗して家を飛び出て他家へ入ったのが、突然この店へお客となって現れ、
「おい、スープをくれ。」
 と昂然とした元気で命じたことがあった。命じられた方は初めは
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