合理主義を習いに来たんでしょう。合理主義なら僕の味方だ。矢代はこ奴敵だからな。愛国心を履き違えているんだ。」
「馬鹿を云え。愛国心に合理の愛国心だの非合理の愛国心だのって区別あってたまるか。そんな区別をするのが、植民地の愛国心というものだ。」
「いや、合理の愛国心というものはある。これこそ新しく生じて来た近代の愛国心というものだ。これこそ新しい心の対象となるべき精神だ。」
と久慈はむっくり起き上るように背を立てて矢代の方へ詰めよった。
「愛国心に古いも新しいもあるものか。あるからあるのだ。」
「あるからあるなんて愛国心は近代のものじゃない。これを変形して工夫を加えてこそ、世界の荒波が渡れるのだ。合理主義の近代に古典主義の愛国心じゃ、生れて来る青年は皆古典になっちまう。青年を古典にしちまったら、科学も死ねば、国も死ぬ。中国と日本の友好という外交一つさえ砕けてしまう。」
猛然とした久慈の攻撃にどうしたものか矢代は意外に小さな声で云った。
「自分の心の中に人間は一つは良い所があると思ってるものだよ。それさえあれば、誰でも世界のものは、皆こんな心になってくれれば良いと願う一点があるのだ。そこから愛国心が生れるので、そんなところがら生れて来る感情に近代も古代もないよ。」
「そこじゃないか。」と久慈はテーブルを叩いた。「そこのところに生じて来る心がてんでに誤りを冒すから、これこそ間違いを冒さぬという一点を索すのが合理的なんだ。その批評精神から愛国心が起ってこそ健全というべきだ。」
「いや愛国心に理窟はない。中国のインテリの誤りは理窟で抗日抗日ということだよ、抗日抗日と云われれば、そんならよしッとこっちは肚を定める。一ヵ所で肚を定めれば、どこもかしこも戦争だ。そんなときに合理的愛国心だから人を殺さぬの、殺すのといったところで、むかしより合理的ならもっと殺す、非合理なら寛仁大度という非合理の見本みたいなもので、サイン一つでうまく片づく。とにかく僕は合理的愛国心なんて不合理も甚だしいと思うね。そのくせ誰だって愛国心だけは持っているのだ。」
「愛国心というのは人前で云っちゃ一層不合理になるばかりだから、今夜はやめよう。高さんに気の毒だよ。」
久慈は高のコップにウィスキーを満してから、「今夜はお呼び立てしといてどうも。」と矢代の失態を詫びるつもりで高の方に会釈した。
「面白かったですよ。僕らにも問題ですから、僕ももっと考えておきます。」
と高は云うと矢代の方を見て、
「矢代さんは雄弁家ですね。僕はあなたの非合理のお説もよく分りましたが、中国の一般の人間は自分に必要のないことは一切考えませんから、愛国心というものがないのですよ。それに長い間中国では軍閥というものが民心を荒しつづけましたから、これから逃げ廻ることばかり考えるのに急がしくって、愛国心からも一緒に逃げる練習も出来たのですね。日本の方では封建制度が完全に行われていたから、大名が変っても民衆は逃げる要がなかったでしょう。それが愛国心の強い原因で、また兵も強いのじゃないかと思いますね。中国はやはり、愛国心の満ちて来るまで抗日はやめられないんだと思います。」
特に深い云い方ではなかったが、しかし、高の答えは誰から聞かれていても安全な答えだと久慈は思った。それに皮肉も考えればうっすらと混じっている。
「愛国心が満ちたらなお抗日が激しくなりはしませんか。」と矢代は訊ねた。
「ところが、中国は自分から他国へ手を出すよりも、他国に自分の国を譲ることの方がむかしから上手な国ですから、やはりいつでも譲っておくだろうと思います。その方が政府は安全ですからね。」
高の言葉に第一番に声を上げて笑い出したのは真紀子だった。皆な同時に真紀子を見た。眼の縁をぽッと桜色に染めた真紀子はうるんだ瞼を眠むそうに開け、何がおかしいのかひとり倒れんばかりにげらげらと笑った。久慈は急に腹立しくなって真紀子を睨んだ。見るともなく久慈の視線を感じたらしい真紀子は彼から眼を反らし、
「だって、そんな面白いお話はないわ。おお面白い。中国は面白い国だこと。」
危くくねらせた斜めの体を、椅子の肱で支えようとしたその拍子に、片手の指に挟んだ煙草の火が、テーブルの縁に擦れぼろぼろと崩れ落ちた。
「何んです。そのざま。」
久慈は足で絨氈の上の煙草の火を踏み消して云った。
「どうして悪いの。高さんがいらしたって、いいじゃありませんか。」
「失礼じゃないか。」
「だって、ゆうべもお世話になったんだわ。ね、高さん、もっとゆうべはお世話になりましたわね。」
光って来た眼を高の方に上げた真紀子の鼻孔が大きく膨らみ、赤く濡れた唇が嘲笑を泛べて久慈に反抗するのだった。
「あなたはもう寝なさいよ。疲れが出たんだよ。」
久慈は真紀子の脇に手を入れ寝
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