う、「ええ、そうです、僕矢代。」と返事をしていた。
「誰からだ。」
 久慈は矢代が訊ねても黙って千鶴子と受け答えしながら、「僕、矢代だよ。」と意地悪く云い張って電話口から放れようとしなかった。矢代はねじれた久慈の脊骨に添って細かく汗の浮き流れているのを眺めながら、ホテルへ安全に帰りついた千鶴子のその報らせに一層久慈の戯れものどかに感じられ暫く受話器を彼に任せておいた。
「君の恋人何んだかしきりに云いわけしとるぞ。さア、代るよ。」
 矢代は久慈に代った。
「僕、矢代。」
「さきほどは――あのね、あたしピエールさんに夜食を御馳走になってたものだから、遅くなってしまったの。久慈さんいけないわ。せかせかしてたもんだから、あなただと思って。」
「久慈がね、今ごろ帰って来たんですよ。どこへ行ってたかまだ白状しないんだが、これから一つ、虐めようというところなんです。」
「真紀子さんは?」
「あの人、とうとう高さんと踊りに行っちまった。帰りは僕一人でね。」
「じゃ、まだなの。」
「まだです。きっと遅くなるでしょう。」
「心配ね。あたし、お礼に行かなくちゃと思うんですけど、どうしたらいいかしら。」
「いや、その御心配はいらないと思いますね。」
「何の御心配だ。」と久慈はバスの中から矢代に云った。
 電話で話をするにも背後の久慈に気がねするだけの落ち着きを、今は矢代も取り返していた。
「久慈が何だか呶鳴ってますから、今夜はもう御ゆっくりお眠みなさいよ。」
「じゃ、お眠みなさい。また明日ね。」
「さようなら。」
 矢代は話が切れても何んとなく千鶴子がまだそのままいそうに思われたので、
「良ろしいか、切りますよ。」と云ってみたがもう電話は切れていた。
 矢代は拍子脱けのしたような気持ちで久慈がバスの中で湯の音をさせている間、椅子によりかかっていた。丁度腰から上が鏡に映るような配置の椅子のために動かずとも顔がよく見えた。彼はその夜のオペラでの出来事を久慈に云ってしまおうかと考えたが、しかし、前から恋愛というものをそんなに高く価値づけることの出来ない性質の自分だと思った。その自分があのような情緒に浸った結果を臆面もなく報告することは、まだ当分の間ひかえた方が良いとも思うのだった。
 矢代は鏡に映った自分の顔を眺めながら、さも安心しきったようなほくほくとしているその顔のどこに価いがあるのか分らなかった。しかし、とにかく、理性で讃美しかねる事柄に屈服してしまった女女しい顔の喜び勇んだ有様は、ある勇敢な野獣の美しささえ頬に湛えているので、われながらあっばれ討死したものだと一層後悔もなくのんびりとして来て、ある憎憎しさもまた同時に自分の顔から感じるのだった。
 それにしてもどうしてまたこんな風になったものだろう。事件というのは、ただ自分が千鶴子の腕を自分の腕の中にほんの暫く巻き込んだだけではないか。
 矢代は自分のこれまで習得した幾分の科学も歴史も哲学も、いったい何んだったのだと、突然このとき疑い出した。まったく、頭のどこかに昨日までなかったある一種の生理的な変動が生じたというだけのことで、こんなに一切の学問らしいものが無力に見えてしまうということは、これはただごとの筈はない。もしもこれが失恋に変ったならばなおさらだった。しかも、この危く脆い心をそれぞれ持ち廻って動いてやまぬのが人の世界だと思うと、ここに火を噴き上げている恐るべき火口があるぞと、今さら迫っている噴煙の景観を望む思いで矢代はまた倦かず鏡の顔を注視した。彼は今夜は一晩ゆっくり考えたいと思った。しかし、もうすぐ久慈は湯から上って来るだろう。そうしたらまた議論だ。人間の過去、現在、未来。――もう沢山だと思っても他人は揺り動かしてゆくだろう。


 久慈は湯から上って来ると矢代の洋服棚をあけ、勝手に寝衣をひっかけて寝台の上へ坐り込み、土産の包の中からジョニウォーカーとサンドウィッチ、それからパンを沢山取り出した。
「ウィスキーは幾ら飲んでもいいが、パンだけはあんまり食っちゃ困るぞ。明日からパリの食い物屋みな一斉にストライキだから、買い込んで来たんだ。」
 久慈は自分が先ず一杯ウィスキーを飲んでから矢代についだ。寝台の上にさし向いで吸取紙を茶餉台代りにしているので、誰か身体を動かす度びにコップが揺れるから、手からコップを放すことが出来ない。それでも二人は久し振りのさし向いで楽しかった。
「明日からは飯も食えなくなるのかね。花のパリもいよいよ餓鬼のパリか。」
 矢代はそう云いつついよいよ自分も地獄か天国か分らぬ恋愛の世界へ入り浸っていくのだと思った。それもも早や避けられぬ、もし千鶴子が何んの理由もなく久慈を殺せと云えば、極端に考えれば、自分はこの親しい久慈さえ殺しかねない陶酔した無茶苦茶な世界である。
「今日
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