ようにと願ってやまなかった。
真紀子の姿が見えなくなったとき矢代は桟敷へまた戻った。人気のない密房の中でタキシイドの肩からウォルトがひとり生き物のように匂って来た。舞台のトラビアタは今は高潮に達していた。しかし、矢代は胸から吹きのぼって来る楽しみに奏楽の美しささえももうまどろこしかった。殊に肩口の匂いの思い出も真紀子一人を犠牲にした貴い喜びだと思うにつけ、何んとか工夫に工夫をこらせてこの喜びをつづけてゆきたいものだと、子供のように浮き浮きするのだった。
ついに舞台では椿姫が、「ほら、こんなに脈が打って来た。もう一度これから生き返るのよ。」と云って喜び勇んで死んでいった。そうして、生き残ったものらの悲しみの奏楽の中に美しく長かった幕が降りた。
矢代はもうこの記念すべき房へは二度と来ることはあるまいと思い、よく桟敷を眺めそれから外へ出た。人人はオペラ座の出口から右角のカフェー・ド・ラ・ぺへ、夜食を食べにぞろりとした姿で雪崩れ込んだ。みなそれぞれ椿姫の生の感動が乗り憑いたまま、蜜を含めた弁のように盛装の中であだっぽく崩れ、次にめいめいの劇に移り代ってゆく放縦な姿態で白い卓布に並ぶのであった。
矢代はピエールも間もなく千鶴子とここへ現れるであろうと思ったが、約束の電話を思い出すとすぐ自分のホテルへ帰っていった。自分もこれから始る自分の劇を誰より美しくしてみせるぞというように、彼は待ち自動車の中でタキシイドの胸をぴんと映して蝶の歪みを整えた。
眠静まった通りには灯火がなく岩間の底を渡るような思いで矢代は帰って来た。一軒のカフェーだけから表へ光りが射していた。その柔いだ光りに照し出された売春婦たちは円くテラスに塊って遅い夜食のスープをすすっていた。矢代も空腹を感じたが千鶴子からの電話を待つため、その角を折れ曲ってホテルへ戻った。もうホテルの中も眠静まっていてときどきシャワの水の音がするばかりである。彼はまだ着ていたタキシイドを脱ぎガウンに着替えた。しかし、いつまで待っても電話はかかって来なかった。こんなに電話のないところを見ると、もしかしたら、千鶴子はピエールに誘われて一緒にどこかへ行ってしまったのかもしれぬと、オペラの興奮のまだ醒めぬほとぼりのままだんだん心配が増して来た。まさかあの千鶴子にそのようなことはあるまいと充分信頼はしていても、自分でさえ桟敷で真紀子と向き合っていたときは安全とは云い難かった。葉が茎から落ちるように離点がふと身体のどこかに生じれば、意志では何んともしかねるある断ち切れた刹那が心に起るのである。すると、そこへ電話がかかって来た。
「君いたね。土産を持ってこれから行くから、寝るのは待てよ。良いか。」
電話は意外にも行方不明を心配していた久慈からだった。幾らか酔いの廻っているらしい久慈に、
「どこにいるのだ。来るのならサンドウィッチを頼むよ。」
と矢代の云ううちにもう電話は切れてしまった。
久慈が来るならもう今夜は千鶴子と話も出来ないと思い矢代はバスに湯を入れた。しばらく会わなかった久慈であるのに、何んとなく邪魔な思いのされるほど自分も変ったのであろうかと、矢代は湯をかき廻しつつまだ千鶴子の電話がしきりに待たれるのだった。しかし、湯に浸り、足を延ばして眼を瞑っているうちに、あるあきらめに似た心が頭にのぼって来た。まったく今まで友人の来るのを厭うほど理性に弱りがあったとは思えなかったが、それが今夜のこの変化である。恋愛というものはこういうものなら長つづきする筈はない。矢代はぱちゃぱちゃと湯を浴び頭をシャワの水で冷やして、おもむろに来るべきものを待つ気持ちに立ち還った。
間もなく久慈が包を小脇にかかえて這入って来た。太い眉の下の眼が怒ったように鋭くなって少しやつれの見える顔に変っている。彼は部屋に這入るとすぐ寝台にどさりと仰向きに寝て大きく両手を拡げた。
「やっぱりここが一番いいや。のんびりとする。」
「どこへ行ってたんだ。」
矢代が訊ねても久慈は答えようとせず、眼を光らせたまま天井を仰いでいた。ひどく疲れているような彼に矢代は、
「風呂へ這入らないか。」とすすめた。
「うむ、面倒臭いや。」
「這入れよ。」
矢代はバスを一寸洗い湯を入れ換えてから、また久慈の傍へもどって来て彼のバンドをゆるめた。久慈は矢代に身の世話をさせるのが嬉しいらしく、
「おい、靴。」
と云ってついでに足も矢代の方へ突出した。
「こ奴、いやに威張ってやがる。土産はいいんだな。」
「ははははは。」
大声で笑って久慈は起き返ると急に元気よく、上衣を投げ捨て、ズボンを踏み蹴るようにまくし降ろして裸体になった。そのとき丁度電話がかかって来たので、久慈は裸体のままふと手近の受話器を秉《と》った。矢代は久慈に代ろうとしたが、久慈はも
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