いた。遊歩廊を歩く男女の組は身体をぴったりとよせ合い、も早や通る他人の顔どころでなく、それぞれの愛情を誓い合うかのような切なげな眼差しで廻っていた。矢代はこのような光景を露台から見降ろしていると、自分も人人の興奮の中を歩きたくなって来て階段を降りていった。綺羅びやかな紳士淑女の揉みぬかれたソアレの匂いも、自分の匂いのように感じられた。男たちの肩や胸に散っている白い粉の痕跡が眼につく度びに、自然に矢代の手は自分の肩へ廻るのであった。
 しかし、このホールに満ちている人人の中で、恐らく自分ほど喜びを得たものはあるまいと矢代は思った。そう思うと廻遊している満座の陶酔のさまも、ともどもに打ち上げていてくれる華火のように明るく頭上へ降りかかって来る。ソアレの襞襞から煌めく宝石の火も、すべてこれ自分への祝典と思えばたしかにそれもそうだった。
「何んという壮麗さだろう。一生に一度の瞬間だ。」
 矢代は黙って静静とひとり歩いているにも拘らず、両腕はもう花でいっぱいの悸めきに似た感動に満たされ、逆にときどき立ち停っては考え込んだほどだった。
 しかし、ともかく、あの真紀子はいったいどうしたもんだろう。――矢代はあたりを見廻しながら歩いた。前から自分を見詰めていたらしい千鶴子の笑顔が遠い立像の傍からかすかにこちらを見て歯を顕した。一瞬視界がさっと展いたような光線の中で、ピエールが自分に代って千鶴子の腕を支えていてくれた。矢代は今はピエールにも感謝したかった。もし彼がいてくれなかったら、この夜の愉しさも、いつもと変らずただ無事な一夜にすぎなかったろうと思った。
 矢代が桟敷へ戻ってから暫くして、もう幕の上りそうな気配のところへ真紀子が戻って来た。
「御免なさい。ひとり抛っといて。高さんに面白いお話沢山伺ったわ。」
 真紀子は前とは変った上機嫌でにこにこしながら椅子に腰を降ろしたその途端、急にあたりの空気に首を廻ぐらせる風で、
「ウォルトの匂いがするわね。千鶴子さんいらしたんじゃない。」と訊ねた。
「来ました。」と矢代は云った。
「そう。それは良かったわ。」
 真紀子は一寸黙って舞台の方を行儀よく見ていてから、突然矢代の方を向き返った。
「あのね、あたし、終りまでいなくちゃいけないかしら。でも、もういいでしょう。お役目果したんですもの。」
「じゃ、帰りますか。いつでも僕は帰りますよ。」
「あなたはいいでしょう。あたしね、高さんと今夜これから踊りに行くお約束したのよ。丁度時間もこれからだといいんですもの。」
 自分に真紀子の行動を止める権利はないと矢代は思ったが、それでも一緒に来たからは離れて帰るのは気持ちが悪かった。殊に良人から離別して来た養子娘の気ままな真紀子を、高と一緒に踊場へ突き放す危さは、千鶴子とピエールとの危さの程度ではなかった。九分が九分まで先ず中国人の巧みな術中に陥ち入る危険があると見なければならぬ。
「駄目だな、行っちゃ。」
「どうして駄目なの。」
「どうしてって、何んとなく駄目だ。」
「でも、もうお約束したんですもの。」
「じゃ、僕も行こう。」と矢代は云って時計を見た。もう十二時近かった。丁度その時舞台では幕が上り、胃病のマルグリットが明け方の白白した部屋の寝台で眠っていた。真紀子は黙って舞台を見ていたが、
「こんなのもう分ってるわ。あたし、じゃ、行って来てよ。」
 と云って立ち上った。みすみす危いと分っている享楽の中へ、自分のために真紀子を突き落すことは矢代は耐え難かった。彼は真紀子の手首を持って引き据えるように椅子へ腰を降ろさせると、
「やめなさいよ。」と力を込めてまた云ってみた。
「あなた、そんなにあたしが心配なの。自由なんですもの、あたし。」
「それや君の自由かもしれないが、女の自由じゃないな。」
「じゃ、千鶴子さんはどうですの。人格が違うんですか。」
 真紀子は捨科白のように鼻をふくらませてまた立ち上り、矢代の手をぐいと振り放した。
「じゃ僕もお伴しようかな。」
 矢代は真紀子の後からついて出ようとしてドアの傍まで行きがけたとき、突然真紀子は振り返ると、「駄目よ、あなたは。」と云って矢代の肩を突き飛ばした。
 入口は桟敷の方へやや傾斜していたので矢代は後ろへ倒れかかったが、それでもまだしつこく廊下へ出ていった。彼は後を追いながらも、たとい真紀子は危くとも高や李に人格の立派なところのあるのが充分泛んだ容貌から感じられた。むしろ踊りに誘ったのは真紀子の方からに相違ないとも思われ、それなら自分の心配も或は真紀子の楽しみを不自由にしているにすぎぬのかもしれぬと、矢代は後悔さえするのだった。彼は露台の欄干を掴んだまま、足早やにいそいそと階段を降りてゆく真紀子を見降ろしながら、それでも彼女も自分のようにひと夜を楽しく安全に暮してくれる
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