は面白いところを見たよ。クリニヤンで老人の新聞売子が右翼の新聞を売ってたのだ。そうすると、左翼の委員が三四人馳けて来て、右翼の新聞を労働者のくせに売るとはけしからんと云うので、ひったくって皆破いちゃったのだ。そうしたところが、老人は両手を拡げて、自分は毎日こうしてこれを売って飯を食ってるんだが、品物を破られちゃもう今日は飯が食えん。どうしてくれるんだと云って、わなわな慄えて泣くんだよ。左翼の委員ら困っちゃってね。ああ、そうか、それは悪かった。じゃ、これを売れってんで、今度は左翼の新しい新聞を沢山買い込んで老人に持たしてやると、老人は何んだってかまやしない品物さえあれやいいんだから、またほくほくして街へ出て行ったよ。しかし、僕は見ていて、破いただけの新聞をまた自分の金を出して買い直してやったところが、フランスだと思って感服したね。思想の裏にも人間がちゃんと立派にいるんだからな。」
久慈の云うのに矢代は、「うむ。うむ。」と云って一寸また考え込んだ。彼は思想の裏にも人間がいるという久慈の成長した解釈に対し特に気をとめて頷いたのだった。自分も今は固い不実な思想と同様に人間を殺す恋愛に落ち込んでしまっている。しかし、思想も恋愛も人間を殺すものなら、殺さぬものはいったい何んだ。
「科学主義者もしばらく見えぬ間に、人間派に戻って来たな。まア無事を祝おう。」
矢代は久慈にウィスキーを瀝《つ》ぎながらまだ自分の変化を胸底深く包み隠そうとするのだった。
「とにかく工場がもう今日で四百も閉塞してしまったからな、これで全世界に拡がっちゃストライキだけで済まないや。世界中の知識階級、真ッ二つに割れてしまう。それならどこもかしこも戦争だ。」と久慈は云った。
「真理、真理とお題目ばかりとなえたものだから、とうとう何もかも真理になって来たのだ。」
久慈は寝台から降りると服のポケットからラ・フレーシュという新聞を取り出して来て拡げてみせた。その一面には大きくフランスの地図が書いてあって、赤化した県とまだそのままの県とを朱と白とで色別けがしてあった。丁度豹の皮の敷物のような形のフランスの地図のうち、白い部分は両手のあたりと尾の少し上の方に小さな斑点とが残っているだけで、後は全部頭から胴を貫き朱の色に染って燃えていた。その下に議席の図もあったが、左方の人民戦線の議席五十六に対して右翼と中間併せて四十四よりなかった。
「これで一日に二千万円近くの金が、外国銀行へ電話一本で逃げ出し始めたそうだからね。儲ける国は棚からぼた餅でほくほくものだろう。為替《かわせ》管理がどうのこうのと云ったところで、何んともならぬらしい。」
経済に明るい久慈の云うことであるから矢代もあまり疑問を挟まなかったが、一日に二千万円近くの金の流出なら戦争以上の経済の惨苦だと思った。日本とは違い、さア事だとなってこんなに容易く自分の国の金銭を外国銀行へ移せるものなら、国内の赤化の勢いは一層銀行をより固めしめ、ついには逆に銀行から民衆を焼く火を噴き出す結果になる懼れさえ感じられた。矢代は外国へ来て以来金銭の運行には前よりはるかに敏感になったが、まだこちらの街頭で煙草を売っている無知な老婆より、はるかに日日の金の差額には鈍感な自分を識った。それも自分ばかりではない。日本内地の多くの人間はその点ほとんど自分よりも無関心だった。殊に東洋のことをふと思うにつけ、通貨の支配力を握っているイギリスの金力が、地球の表面にどのような姿で投資され、その余力をかってどんなにわれわれが動かされているかということさえも、むしろ知らぬことを高貴な態度と思い信じているがごとき知識人の多い原因には、一つは金銭には我関せずと思う伝統の所作もあるにちがいないと矢代は思った。
「中国との戦争の噂はばったり二、三日で熄まったじゃないか。やはりあれは嘘だったんかね。」
と矢代は訊ねた。
「何んでもあれは、陳済棠と李宗仁が広東で戦争をしたのを、日本と中国との戦争だと早合点したらしいんだが、戦争のニュースの出た夜、サン・ミシェルの支那飯店で日本人が一人ひどい目にあってるね。」
「そう云えば、僕らの行った夜も沖さんは危かったよ。あの人は演説が好きなんだ。あれは社長の癖が我知らず出てしまって、何か事あるときは日本人を代表しなくちゃならん、と思い込むのが趣味なんだね。船の中でもあの人さかんにやったからな。」
こういう話をしながらも、矢代は今夜真紀子と踊りに行った中国人の高有明の表情は、船中のいつもと変らずなごやかな信頼の情を顕していたのを思うと、時が時であるだけに、まだ通じ合う何ものかも失われず残っているのを感じ、思いがけない灯火を見たように真紀子の帰りの話を待ち受けるのだった。
「云うのを忘れたが、今夜オペラへ真紀子さんと行ったのだよ。そ
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