ぐわぬ時の流れのように思われたが、しかしいままさしくグランド・オペラに自分のいることだけは間違いはなさそうだった。
「これが代代の日本の若者の心をそそのかせていって熄まなかったものか。これが人生を波立たす何ものかの一つだったのか。」
 とこう矢代は思うと、今さき出会った千鶴子の視線にもし少しの危機の信号でもあったなら、この絢爛たるオペラも自分にとっては憂悶の種だったにちがいないと思った。銀鼠色の大理石の壁面の傍まで来て二人は再び引き返した。幕間にもう一度千鶴子と会うには遊歩廊は広すぎて駈け足でもするより法はなかった。矢代は千鶴子の後を追おうとする真紀子を一度は前に引きとめてみたものの、今またこうしてその後を追い求めている自分の傍で、とかく真紀子を除け者同様に扱っている自分の心にふと嫌悪を感じた。水に浸ろうとするような立像の美しい彫刻の下まで来たとき、また千鶴子を追うのを思い停り、矢代は真紀子を労わりながら云った。
「ヴェルディはイタリアからパリへ出て来て、ここで椿姫の芝居を見てから、早速このトラビアタを作曲したんだそうですよ。歌劇のことはよく僕は分らないんだが、何んでもベニスで最初やってみて、大失敗をしたって云いますね。」
「ベニスでね。あそこあたし行ったのよ。主人と二人で行ったのだと思っていたら、そうじゃなくってハンガリアの女もちゃんと来ていたの、それもベニスだけじゃないのよ。どこへ行くにも番人みたいに後の汽車か先の汽車で来てるんですもの。あたしだって腹が立つでしょうね。」
 人の流れがそれぞれの桟敷へと動き出した。二人はまた階段を登っていった。矢代は吊り上げるように真紀子を支えねばならぬので、ふと擦れ合う胴の触感から醒める暗黙の危機を感じた。実際こんなに千鶴子にも同様この危機が刻刻襲っているものなら、必ずピエールの鋭い眼が生ま生ましい慾情に変っていることなど自然なことだと、うるさくまた悩みが追って来るのだった。しかも、発火点が擦れ合いつつ再び密房のような桟敷へ這入っていくのである。桟敷には頼めば係りの老婆が鍵までかけてくれるばかりではない。窓には重いカーテンの用意まで出来ていた。
 桟敷へ這入ると室内の真紅の色や鏡が暗怪な色調のまま矢代の皮膚を撫でて来た。彼は真紀子から視線をそらせているものの、ただ二人きりの密房の中の沈黙は重苦しい刺戟を増すばかりだった。これで何事か起らぬ方が不自然だと云いたげな部屋の長いソファも同色の紅いである。真紀子は黙りつづけて窓から舞台の幕を見ていたが、一刻の魔の通過を感じ合う呼吸は、触れば今すぐにも首を落す危い植物のような刹那を二人で持ち合いますます重さを加えていくのだった。それはころりと人の運命の変っていくあのものの弾みの恐るべきひとときだった。そのとき幕がパリの郊外のブウジバルの美しい風景を泛べて上っていった。
 矢代はほッと起き上ったような気楽な気持ちになって舞台を眺めた。
「あそこはブウジバルですよ。僕は行きましたよ。ここから一時間ばかり自動車でかかるところです。」
「あら、そう、行きたいわ。一度つれてって下さらない。」
「行きましよう。こんな美しい村はパリの郊外にはないって、デュウマが椿姫の中で書いてますよ。僕の行ったときには、あのあたりいちめん林檎の花ばかりでしたね。」
 杜から帰って来たらしい猟服のアルマンが一人這入って来た。マルグリットとの完全な愛の生活に彼は嬉しそうで身も軽やかに悦びの唄を歌う。そこへ女中が現れ、アルマンの悦びを打ち砕く第一撃を与え、興奮しながら出て行った彼の後へマルグリットが登場する。まことに隙なく燃焼しつつある二人が全力で美しく愛情を支え合っているときにも、過去が現在の幸福を冷酷無情に顛覆して進んでゆくのである。アルマンの老父が現れて別れをすすめ、哀願に変ると、ついに二人の未来は悲劇へと移っていった。
 別れを頼む老父へ、最初はマルグリットも、「愛してるから駄目。」と強い拒絶の言葉を云う。しかし、真に愛しているなら、「愛してるから駄目。」と、何ぜそのまま押し通して未来を造っていかなかったか。矢代はどこかの桟敷の奥から今もこの光景を見ているにちがいない千鶴子の姿を想像した。
「愛してるから駄目。」
 世の中の不徳の数数を撃ち殺していった椿姫の美しい心が、今みなの心の中に生きているに相違ない。それでもなお心をけがして見ているなら、早くけがしてしまえ。――矢代は今まで嫉妬に苦しめられていた自分に腹立たしくなり、もう後を見ずに帰ろうかとも思った。
「いいわね。」
 真紀子は幕が降りると立って鏡に顔を映し、ひとり桟敷の外へ足早やに出ていった。矢代も後からついて出たが、どういうものか真紀子は露台の端に立って下を見降ろしながらも、さも矢代のいるのが邪魔物のように憎憎しげに
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