人を見降ろした。薄汗が首のあたりににじんでいるのを拭きつつ、彼は千鶴子を探してみたが分らなかった。
「椿姫まだ見えないわね。」
と真紀子も云って下を見降ろした。矢代は真紀子の助太刀に出て来てくれたその気持ちが有り難く、笑いながらもこの調子だと自分も本物のアルマンに今になるのではないかと思って脊を延ばした。
「どうも僕にはあんな歌劇は苦手だな、この方がいいや。」
「でも、いいわ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのに、どうしてるんでしょうね。」
ふとそういう憂いげな真紀子に矢代は頷きながら、それではやはり真紀子も舞台を見つつ、久慈を想い泛べていたマルグリットの一人だったのかもしれぬと気が附いて云った。
「今度は久慈とまた来ましょう。久慈はハイカラだからこういうのは好きだ。何をしてるのかなア。」
汗がひいたためか柱廊の大理石の冷たさがひやりと両脇から流れて来た。遊歩廊から下のホールへかけてだんだん集って来たタキシイドやソアレの組が、傘灯の下で囁きかわしながらゆるく旋回をつづけていた。燦爛たるその景観を見ているうちに、泡立つような白い扇のゆらめきや耳飾が、突然一撃して去った東野の今日の言葉を矢代に思い出させた。
「君は過去を見すぎるぞ。」
しかし、矢代は露台の真紅の絨毯の上に突き立ったままその東野にひとり抗弁している自分を感じた。
「いや、万有流転だ。流転が歴史の原型の相なら、この下が刻刻過去になりつつあるその具体だ。過去を見ずにどうして未来が見られるか。」
漂い湿っているかすかな嫉妬心の中で、ひょっこりとそんなことを考えている自分に、おや妙なアルマンさまもあるものだなアと、彼は一巡あたりを見廻した。そのとき、二階の遊歩廊から反対の階段をホールの方へ降りて行く人人に混って千鶴子らしい姿がちらりと見えた。
「いるいる。あれだ。」
と矢代は口まで出かかったが、今はいるところさえ見届ければそれで良いのである。見ればこのまま帰ってしまっても義務だけは果したのだと思うと、そのまま黙ってなお一層視線を千鶴子の方へ強めてみた。水色のソアレに銀色の沓で千鶴子はピエールに腕をよせ、巻き辷るような欄干の軽快な唐草の中を静かに笑みを泛べながら降りていった。矢代はなお真紀子に黙って急がず、千鶴子の降りてゆく反対の階段の方へ真紀子の腕をとって廻った。何んとも云えず豪華な一瞬が豊かな呼吸をし始めたようで、一歩一歩踏み降りる靴の下から煌めく火のような宝石の光りが飛沫を面に打ち上げて来た。
「ここのホールの方が見物席より広いようね。いつ建ったのかしら。」
真紀子は階段を降りたときあたりを見廻して訊ねた。
「十七世紀。」と矢代は答えると、廻遊している人の流れの中を緊迫した思いで千鶴子の方へ歩いた。千鶴子はまだ彼に気附かぬらしい様子だったが、ときどきピエールと話しながらも二階の歩廊の方を眺めたりしていた。額の広いピエールは身についたタキシイドの上であまり笑顔を見せず、よく光る眼でゆっくりと歩いて来た。肩幅のある中背のがっちりとした姿で、顎を引きつけて人を見る様子はどことなく写真の若いナポレオンの姿に似て見えた。矢代は組み合せた型の廻ってゆくようなこの劇場に少し反感を覚え、また照れ気味にもなって来たが、しかし、もうどちらも出る所へは出てしまっている、今はそのひとときだと思い勇気も出るのだった。
「来たわ。一寸。」
と真紀子は矢代の腕を引いた。そのとき千鶴子も矢代たちを見つけたらしく軽く笑いながら黙礼した。矢代は憂鬱な気持ちだった。その間も、縮まっていく二人の視線の間を人の流れがちらちらと断ち切ったが、また顕れる千鶴子の顔は見る度びに笑顔を変えた。擦れ違うとき、
「これまアお儀式みたいなものよ。黙って暫く待って下さらない。」
とこのように千鶴子の視線は物を云いながら、真紀子にだけ彼女は一寸お辞儀をして行きすぎた。ピエールの眼は急に光って二人をじっと見詰めていたが、何事か千鶴子の囁きに頷きつつホールの外の遊歩廊の方へ廻っていった。
「後からついて行きましょうか。」
真紀子は急にぴったりと矢代に胸をよせかけて訊ねた。
「いや、よしましょう。おかしい。」
「どうして?」
矢代は千鶴子を見たときからもう安心を感じ、足もゆっくりとなり黙ったままくるりと廻ろうとする真紀子を手もとに引きめぐらせて歩いた。――「ああそは彼の人かうたげの中に一人ありしは。」という第一幕のマルグリットの歌も、ある魅力を帯びて矢代の胸中で水脈を拡げるのだった。行きちがう人の中から、さまざまな香りが漂い移り、耳飾や曳き摺るような銀狐や、垂れ下った真珠、白や黄色、水色などとりどりなソアレの顕れるに随って、矢代は、絢爛無双な時間が今自分の周囲で渦巻きを起しているのだと思った。それは自分と非常にそ
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