或いは千鶴子に胸中の想いのままを伝えたかもしれない。しかし、日本を離れた遠いこのような所にいるときの愛情は病人と何ら異るところはないと矢代は思う。彼は千鶴子よりも少くとも理性的なところが自分にあると思う以上、旅愁に襲われている二人の弱い判断力に自分だけなりとも頼ってはならぬと、最後にいつも思うのだった。それはチロルの山中で二人が乾草の中で一夜を明したときもそうだった。現にアルマンの愛情をそのまま受け入れた病人のマルグリットの最後はアルマンの家庭から引き裂かれたうらぶれ果てた死となった。病人はどちらも安静にしてこそ健康になるのじゃないか。そう思うと、矢代は白い手袋を握って立ち上り、暫く真紀子の前を往ったり来たりするのだった。
王宮に似たオペラ座の正面の階段を真紀子は腕を矢代に支えられて登った。登るにつれて両翼に拡がった蔓のような真鍮の欄干の優雅な波が廻廊へと導くまま、歩廊を幾つも越して二人は二階の桟敷へ案内された。蝋燭の似合いそうな深い部屋の中は紅色の天鵞絨で張り廻された密房の感じだった。椅子に腰かけてもう始っている舞台の方を見ると、丁度そこだけより人生はないと思わせる具合に舞台以外の他の部分は見えなかった。矢代は劇の動きよりも来ている千鶴子を探したかったが、よほど窓から乗り出さない限り窓枠の欄壁の厚さに邪魔されて客の顔は探せなかった。どの部屋も恐らくこのようになっているとすれば、この夜ピエールが千鶴子に囁く言葉や態度は、この密房の中の真紀子と自分とを想像するより法はなかった。
「綺麗な女優さんね。声もいいわ。」
真紀子は小声で云った。矢代はそう云われて初めて舞台を眺めている自分に気がついた。舞台ではマルグリットの歌劇名のヴィオレッタの豪奢な客間で催されている夜会だった。
「ああ、楽し。妾や、快楽のために死ぬのが本望……」
まだ始ってあまり間もなく、黒い天鵞絨の衣裳を着たマルグリットを中心に、十九世紀風のパリの紳士淑女が華やかなメロディの合唱をつづけている。
矢代は事実をそのまま小説化したと云われる原作の椿姫では、アルマンが最初にマルグリットの椿姫と話した時は今自分が千鶴子を探しているように、オペラへ来ていながらも、絶えず桟敷から桟敷へと眼を走らせて舞台を少しも見ないマルグリットの描写だったと思った。しかも、椿姫の棲んでいた所もこことはそんなに遠くないアンタン街でそこから彼女はこのオペラへもよく来たのだと思うと、いま現にここにいる自分を思い合せ、瞬間あッと胸中叫びを上げたいようなくるめく動揺を感じるのだった。
しかし、すぐ次ぎに、アルマンの熱情こめた少し野暮ったいほどの純情な眼で、マルグリットをじっと見詰めている燕尾服の姿が現れた。その姿をひと眼見たとき矢代は、あの獲物を狙う鷹のような露骨な眼つきはとうてい日本人の自分には出来そうもないと思い、外人のピエールなら或いはそれが難なく出来るのかしれぬと想像され、時間の進行につれだんだん千鶴子の身辺が危かしく気遣われて来るのだった。それにこの美しい透明な旋律である。ピエールだってそのままの筈がない。――矢代は次第に迫って来る暗鬱な恐怖に意外な芝居になって来たぞと後悔さえし始めた。
舞台ではアルマンを中心に手管の巧妙な遊蕩児の伯爵や男爵の酒の飲み振りの場がつづいた。そのとき突然ばったりマルグリットが倒れた。人人が追って来る。それを片手の手巾で追い散らし、ただ一人になったマルグリットの苦しげな傍へ、アルマンが来た。そして、真心こめた日ごろの想いを打ち明け出した。
矢代はふとそのとき、千鶴子が自分を今夜ここへ呼び出したのは、実はここを自分に見せたく思ったのかもしれぬとそのように思った。すると、ただそれだけのことで場面はまた俄に自分の味方のように明るく見え始めて来るのだった。しかし、もしピエールがそのまま今のアルマンを気取ったら、何事か今ごろはそのような態度に出ていないとも限らないと思った。
「棄て給え、その恋、ああ忘れ給え……」とマルグリットは切なげに歌っている。
舞台を見ていても何も眼につかぬ自分の空虚さを傍の真紀子が感じているであろうと矢代は思った。そして、今夜のこの意外な苦心は一層増していくばかりだと思うにつれ、これを避ける方法はやはり自分がこうしてここに出て来る他にはなく、また千鶴子もピエールの誘惑を避ける方法は、同様に自分にこの劇を見せる以外、考えつかなかったにちがいないと感じて来るのだった。
「やはりヴェルディの音楽がいいのね。あたし、ナジモヴの椿姫をむかし見たことあるけど、あれも良かったわ。」
真紀子は幕が降りたときこう云って矢代と桟敷を出た。顔を直したばかりの真紀子の匂いが柱廊の光りの中でよく匂った。矢代は露台の欄干の傍に立って下の広いホールにゆらめく人
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