「さア、どういうものか今度よく訊きましょう。」
矢代は東野の後姿を眺めて云った。後ろでは二人の論争はまだ激しくつづいていた。
グランド・オペラは二十一時に始まる。千鶴子は真紀子に電話をかけ、無骨な矢代のことだからまごまごすると困るというので、自分に代ってオペラの案内を頼むと申し込んだ。ヴェルディの椿姫のこととて真紀子も喜んで千鶴子の頼みを承諾した。千鶴子の方へは勿論ピエールが迎いに来るから矢代たちと一緒に行くわけにもいかず、二人はそのまま別れて矢代だけ切符を買いにひとり出かけた。
本屋で買って来た椿姫を拾い読みしてから、夕食後矢代は初めてタキシイドを着てみた。白い手袋、エナメルの靴と身を替えて鏡の前に立って見ると、少し照れ気味な映画のギャルソンのような自分の恰好に苦笑が泛んで来るのだった。今夜だけは本物のピエールというアルマンと競争しなければならぬだけに、気骨の折れること一通りではないと思い、少し歩くと一度も練習したことのない舞台を踏むような気重さである。そこへ真紀子が階上から降りて来た。白地の縮緬のところどころに葉を割った紫陽花の模様のソアレを着た真紀子は、見違えるほどのしなやかな美しさだった。
「御用意できて、あら。」
と真紀子は云うと頬笑みながら、背の高いどことなく苦味を帯んだ矢代の姿を上から下まで見下した。
「どうです。このアルマン。」矢代は顔を赧らめて訊ねた。
「堂堂としててよ。あなただとは思えないわ。まア。失礼。」
「これで歩くと猿になるんだから、今夜は一つじっと立って、胡魔化してやりましょうかな。腹芸をやるんだ。」
真紀子はふッと笑いを殺してから矢代と並んで鏡に映ると、
「あたし、香水のいいのを買い忘れたの。シャネルよりないの。」
と云いつつ矢代により添い、片腕を一寸彼の腕にさしてみた。
「今夜一晩はこうして歩くんですからね。そんなに嫌がらないで下さいよ。ああ、面白い、久し振りにいい気持ちよ。あなた一寸。」
とさも面白くて溜らぬと云う風に真紀子は腰を折って笑い転げ、椅子に腰を降ろしてはまた鏡を見た。
「いよいよ役者か。ひどい目に会わされたもんだ。困ったなア。」
矢代は寝台の端に腰かけ真紀子のソアレを眺めながら、人生の中ではこんな芝居そっくりの場合にもたまには出会すものだと思い、いったいこれは何んという芝居に似ているものかと考えた。しかし、自分の出場はまだこれからで何のプログラムもないばかりか、椿姫のようなオペラを見れば見る者尽く自分も何らかの意味でアルマンだと思い、またマルグリットだと思うにちがいないので、あながち自分の今夜の出場も自分ひとりの芝居ではないと気が附いた。
「本当の椿姫の生きていたのは千八百四十二年というから天保十三年あたりだな。それもここのオペラ・コミック座の桟敷でアルマンが初めて椿姫を見染めて、嘲笑されたのが事の起りだから、今夜はまア実地踏査みたいなものだ。」
「あたし、前に一度読んだことがあるんだけれど、もう忘れてしまったわ。」
と真紀子は云って腕の時計を眺めてから、
「でも、千鶴子さんも物好きね。何も他の方と御一緒のところをあなたに見せたいって、どうしてでしょう。椿姫の気持ちを味いたいのかしら。」
「そうじゃない。あの人は初め断ったところが、それは礼儀でそうも出来かねたんだと思う。それに相手がフランス人だからどんな具合いに誘惑するとも限らないと思って、誰か知人に見ていて貰って安心したいんですよ。」
「そうかしら。でも、おかしいわね。」
と真紀子は薄笑いを泛べ机の上の椿姫を手にとってぺらぺらと頁を繰りながら、
「あの方、やはり矢代さんを愛してらっしゃるのね。そうよ。」
と小声で云って、ある頁のひと所にじっと視線を停めていた。
矢代は「いや、違う。」と云うことが出来なかった。彼は真紀子の視線を停めている頁はどのあたりであろうかと、彼女の来る前に探したある部分の言葉を思い出した。そこは血を吐いたマルグリットが寝室へひとり下って咳き込んでいる所へ、隣室から後を追って来たアルマンが初めて愛を打ち明ける場面で、マルグリットが優しくアルマンの熱した態度を抑える言葉である。
「そんなことを仰言るもんじゃないわ。もしそんなこと仰言れば、結果は二つよりないんですもの。」
「それはどんなことです。」
とアルマンが訊くと、
「もしあたしがあなたのお心のままにならなかったら、あなたはきっとあたしをお怨みになるわ。またあたしがもしあなたの仰言るままになったとしたら、あなたは、それは厄介な惨めな恋人をお持ちになることになってよ。」
というところである。矢代はこのマルグリットと同じ言葉をいつも千鶴子に向い、胸の中でひそかに云っていたのを思うのであった。もしここがパリでなくて東京だったなら、
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