とした間からひとり東野がこちらへ歩いて来た。彼は千鶴子たちのいるのに気附かぬらしい様子で奥へ這入ると、論争している二人の日本人の傍へ坐って、
「やア。」と云った。
 しかし、ベルリン党とパリ党の興奮した論争は東野に会釈もせずまだ続いた。そのうちに矢代たちに気が附いた東野は傍へ来て千鶴子の横へ腰かけると、
「どうも昨夜は面白かった。」
 と云って論争している二人の方をまたそこから見続けた。
「何んですか、面白いって。」
「あれだ。あの論争は昨夕からまだ続いてるんだよ。もうやめたかと思って来てみたんだが、まだやっとる。」
 三人は一緒に笑った。東野の話では一人のパリ党の方はソルボンヌへ生物学の勉強に通っている画家で、もう一人の方はベルリンの特派員で日本へこれから帰るところだったとのことだった。東野と画家と特派員の三人は女たちが裸体で踊る踊場へ昨夜見物に行ったところが、あの二人は入口の所でふと議論を始めたのがきっかけとなり、裸体の女の群れが波のように踊っている中でも振り向きもせず、議論を朝の白みかけるまでやり続け、そのまま家へ帰って寝て、今朝ここで会う約束をしてまた続きをやり出したのだそうである。
「はだかん坊の中で議論するとは見ものだろうな。」
 と矢代は一層面白がって笑った。
「それはなかなか見られない風景でしたよ。ああいう議論というものは僕は見始めだな。周囲はみな一糸もまとわぬ薔薇色の波の律動なんだよ。その中で島みたいにあの二人の洋服だけが固まってじっとしてるんだからな。それも、政論と思想問題ばかりだ。」
「じゃ、夜が明けたって倦きなかったでしょう。」
「倦きるどころじゃない。有史以来世界にこんな議論はあっただろうかと思って、恍惚として僕は夜を明した。幸い一人の方は明日帰るから良いものの、これでもう一週間もいれば二人は死んじまうね。」
「そいつは日本精神だなア。」
 三人は笑いながら二人の方を見たとき、パリ党の方は固めた右の拳の角で卓を叩きつつ、フランスには昔から地下に隠してある金塊の額は計り知れぬという説明を縷縷として述べていた。どちらも論理そのものの正否よりも、ただ負けたくない感情だけが論理を動かしているのだった。したがって議論が議論ではなく、も早や恋いこがれている感情だけなのである。矢代も久慈との毎度の角突き合いもあのようなものだったと思い、まだこれは俺は駄目だと、瞬間自責を感じて通りの晴れ間に葉を拡げたマロニエに眼を移した。
「それはそうと、東野さん、久慈は二三日行方不明で困ってるんですが、あなたの所へ顔を出しませんでしたか。東野のおやじ来んかな、やっつけてやるんだがって云ってましたから、もしかと思いましてね。」
「来んな。どこへ行ったんだろ。」
 東野は考え込む風だったが、別に心配そうな顔はなく、にやにや笑って顎を支えながら云った。
「僕に怒ったって、それや殊勝な男だな。」
「何んだかこの間の議論をときどき思い出すらしいですね。」
「もうじきまたひょっこり現れるだろうが、顔を出したらもう一ぺん揉みくちゃにしようじゃないか。そうするとあの男面白くなりそうだ。あのままだといつまでここにいたって無駄だからな。」
「まだやるんですか、それや少し気の毒だ。」
 矢代はこの調子だと今に自分も叩きのめされそうだと、内心覚悟を決めて薄笑いをもらしつつ、どちらへ転がるか分らぬ無気味な東野の表情に注意した。
「そうすると、僕もまだこれや、東野大学なかなか卒業出来んらしいですね。」
「君もまだだよ。君は人間の過去ばかり考えたがる。それはいかん。」
「いや、未来だって考えてる。」
 矢代は案外真面目に突かれた驚きを色に出して反抗した。
「そんな未来は未来じゃないさ。」
「しかし、そんな未来って、僕の考えてる未来はあなたに分らないじゃありませんか。」
「分るさ。君のいつも云うことは人間の過去の美しさを信頼して物事を考えてるだけだ。それじゃつまらん。過去なんかいくら美しかったって、良かったって、何になる。あそこの二人の論争だって、フランスとドイツの良い所ばかり云い張っているだけで、過去ばかりより考えていないからいつまでたってもあの醜態だ。傍から水をぶっかけたって、まだ水の中で云い合いしとる。はッはッはッは。」
 東野は笑いながらすっと立ったかと思うとそのまま飄然と外へ出ていってしまった。矢代は理由もなく殴りつけられたようで後を追っかけて行く気もしなかったが、それでも他人の非難は一度は慎重に考えたくなり、再度の武装の具足を手足に巻き固めたくなるのだった。
「分らないな。僕が未来を考えないって、どういうことだろう。またこれは喧嘩の種が一つ落ちた。」
「だって、東野さんでも俳句お作りになるんじゃありませんか。あんなのもやはり未来の美しさなのかしら。」
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