外套の水を切って手袋をぬいだ。
「でも、云っちゃいけないかもしれないわ。」
まだ雨に濡れている瞼で軽く笑う千鶴子の、羞しそうな眼もとに見入りつつ矢代は煙草を吸った。特に千鶴子にだけ感じる自分の愛情とはいえ、日本を出てから頭に何んの変化も受けなさそうな千鶴子の健康さを、矢代は不思議と思うよりそっとそのまま包みたくなり、中味の空な思想の形骸に踊らされるこのごろの毒から、せめてこの母体だけなりとも守りたいと思う念慮は、マルセーユ上陸以来矢代の変らぬ努力だった。
「仰言いよ。何んです。」と矢代は訊ねた。
「叱られると困るわ。」
「叱ったためしがあるかな。」
「だから云いにくいのよ。」
沸騰しているアルミの釜にどろどろとコーヒーを流し込む調理場から、強い匂いを放って立ち昇っている湯気を千鶴子は眺めた。
「あのね、いつかそれ、お話したことがあったでしょう。ここの大蔵大臣の夜会で、あたしの手に接吻したピエールって書記官のことね。あの方、今夜あたしをオペラへ招待して下さるんですのよ。あたし、別に行きたかないんだけれど、塩野さんたち、それや、ピエールさんは鮭を日本がこちらへ入れるのに随分骨折って下すった人なんだから、是非出席しなくちゃいけないってそう仰言るの。それであたし、それじゃと思ってお約束したんだけど、矢代さんも今夜オペラへいらっしゃいよ。ね。」
「そいつは困ったな。」
と矢代は云って後頭部に手をあてた。千鶴子に愛情を覚えていることには変りはなくとも、別に取り立ててそれを打ちあけたことがあるわけでもなし、まして愛人でもない千鶴子の自由さを看視する気持ちはまだ矢代には起らなかった。
「でも、切符は今からじゃないと間に合わないわ。椿姫よ。もしいらっしゃるんだったら、あたしこれからオペラまで行きましてよ。」
千鶴子は時計を出してみて、
「まだ一二時間は大丈夫、行きましょうよ。ね。」
「だけど、僕が一緒というわけにもいかないし、あなたの楽しんでるのを見せようって肚なら、話は分るが。」
「そうなの、お見せしたいのよ。」
千鶴子はくすりと首を縮めて笑って頬についた雨を撫で落した。
「よし、そうまで云われちゃ、見てやろうかな。」
矢代も顎を撫でつつ笑っているうちに幾らか得意な明るい気持ちになるのだった。友人同士としては千鶴子にあまり好意をよせすぎるが、愛人としてはあんまり自由な気持ちでありすぎる二人だった。千鶴子も退屈さのあまりに考えついた趣向とはいえ、思い切って云い出したその企ては、氷河の断層を渡ったときのようなある未知の愉しさを矢代に与えた。これで嫉妬を感じれば申分のない芝居だと思ったが、千鶴子には信頼の方が先に立ち、手にあまる柔軟な滴りをまだ矢代は彼女から受けたことがなかった。一度それを受けてみたいとそう思うと、ついでにお洒落も今夜を機会にしてみたくなるのだった。
「あなたがピエールという人と行くのなら僕も一つ誰かをつれて行くかな。僕のお相手してくれるのは、まア真紀子さんぐらいなものだが、そうだ、真紀子さんに頼もう。」と矢代は膝を打った。
千鶴子は一瞬笑いを停めて矢代を見たが、すぐまた前のような平静な美しさで、
「どうぞ、その方が退屈しなくっていいわ。」
と笑うと、そのとき急に大きな声を出し始めた向うの、激論している日本人の方をびっくりした風に振り返った。
「何に云ってるのかしら。あれ。」
「議論だ、面白いよなかなか。」
矢代は頭を後ろへ反らし議論嫌いの千鶴子のびっくり顔をさも楽しそうに見ながら、あまり千鶴子と仲良くない真紀子に頼み込む難しい方法をあれこれと考えた。這入って来る客の雨外套から垂れる滴で床の斑点が拡がって来た。窓ガラス一面に浮んだぶつぶつの露が重さに耐えかねて蛇のように下って来る。パリ党とベルリン党とは疲れる様子もなく、ついにはパリのマロニエの美しさとベルリンの菩提樹の美しさとの云い合いまでに及んで来ると、マロニエの下で飲む葡萄酒、菩提樹の下で傾けるビールの美味と云った風に、転転と議論は移り変っていって尽きなかった。もうどちらも恋いこがれているひたすらな情熱で、眼の色まで変っているその様は、日本の知識階級を抽象したそっくりそのままの現れのように矢代には見えた。このようになれば国粋主義者の怒り出すのは道理であると彼は思い、それでもなおそのまま我慢をじっとしている民衆の底の義理人情という国粋が、も早や国粋の域を脱したただならぬ精神の訓練の美しさのように矢代には見え始めて来た。しかも、この黙黙とした精神だけがひとり知識階級に勝手な熱情で論争せしめ、それを誇りとしてにこにこ笑って聞いている、まるで母親のような優しい姿となって泛ぶのだった。
いつの間にか雨が小降りになっていて、空も明るく晴れて来た。すると、街路樹の生き生き
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