黙っていた。少し青ざめた顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりに薄く浮き上っている真紀子の静脈の波打つのを矢代はちらりと眺め、思いがけなく不意に足もとから狂って来たこの真紀子の感情の収拾は、これは容易じゃないと思った。しかし、慰めようにも元来がこんな夜に真紀子を誘ったことがすでに失敗だったのであるから、一度は来るに定っている不機嫌だった。下手をするよりこのままそっとしておくに限ると矢代は言葉もなく黙っていた。
「少少疲れましたね。」
事実矢代は疲れを感じて云ってみたのだが、「そうね。」と真紀子は低く答えただけだった。彼は太い磨きのかかった淡紅色の大理石の円柱に片手をつき、千鶴子の現れるのを探しながらも、傍の真紀子の不機嫌さにホールの美しさも今は溷濁《こんだく》して感じられた。
「あら、あれは高さんだわ。」
と突然そのとき真紀子は下の遊歩廊の左の方を覗いて云った。酒場の方へ通じる入口の所に、カフェーでよく会う画家の李成栄と、来る船中ダンスの会で真紀子がデッキでよく踊った高有明の二人が立っていた。高は上海の有名な支那銀行の頭取の息子で、東京帝大の経済を出た日本語の巧みな上品な青年だったが、どういうものか船中は一等に乗らず二等にいた。
「一寸行って来ましてよ。」
真紀子は矢代を一人露台に残して階段を降りていった。李と高は婦人を連れていないためであろう、ホールの中へは出ずいつまでも入口の壁の前に立っていたが、横から真紀子に肩を打たれて驚く高の眼鏡が忽ち笑顔となり、懐しげに握手をした。笑うと顔を赧らめ眼を大きく開いてきらきらと光らせる高の上品な癖を、矢代は露台の上から眺めながら、真紀子の大胆な変化に今さらある恐怖を感じて来るのだった。暫らくして高は真紀子に教えられたものと見え、露台の方の矢代を見上げると一寸手を上げて会釈をした。矢代も一別以来の挨拶を笑顔で返してから、ふと横を見たとき、今まで突いていた自分の片手の汗を中心にぼッと曇った円柱の肌の向うから突然千鶴子の顔が現れた。
「お一人なの。」
「いや、あそこに真紀子さんいるんだけど、どうも不機嫌でね。困った。」
「そうお。失礼したわね。」
千鶴子は真紀子を見降ろすようにしてから、笑顔も見せずまた矢代の顔をいつもより強い視線でじっと見詰めた。矢代は急に上下の変動の起った多忙さにハンカチを出して額を拭きながら、
「お終いまでいるの?」
と訊ねた。千鶴子は早速に答えかねた様子で首をかしげた。
「ホテルへお帰りになったら、すぐお電話下さらない。あたし、先だったらいいんだけど。」
「じゃ、君も下さい。」
と矢代は云った。千鶴子は後ろを振り向いてみてから、
「あのう、ピエールさんに帰る時間お訊きしてみるわ。この次桟敷へ一寸お伺いしてよ。お宜敷くって?」
「どうぞ。」
「どちらかしら?」
「そこです。」
と矢代はすぐ後の桟敷を指差した。千鶴子は矢代の指差した桟敷のドアの方をよく見届けると、
「あそこね、じゃ、また。」
と云ってお辞儀をしたが、しかし、そのまま少しくためらう風にまだ立っていてから、もう一度お辞儀をして円柱の向うへ離れていった。もう幕の上る時間に近づいたらしく人人はそれぞれ桟敷の方へ流れていった。矢代はいつもより青ざめた大きな眼のあわただしげな千鶴子の様子を思うと、故もなく動悸が激しくなり、桟敷へ真直ぐに戻る気持ちがしなかった。
場内では幕が上ったらしい気配だったが、真紀子はまだ戻って来なかった。久し振りで高と会ったのだから彼の桟敷へ一緒に行ったにちがいないが、今は矢代はそれどころではなかった。千鶴子の張りつめたような眼の大きさが一大事の前触れのように頭に泛んで来てとれなかった。もう自分も完全に顛覆してしまっている。――矢代は人の全くいなくなった柱廊のひっそりとした真紅の絨毯の上を歩きながら、何事か深まっていく決意の中に身を沈めようとするような憂鬱な表情に変っていった。桟敷の鍵を持った黒い服の老婆が静かに柱の影から歩いて来た。すると、彼に近づいて来た老婆は鍵を出して、
「これ。要るんですか。」と訊ねた。
「いや。」
と矢代は云ったが、ふと老婆は千鶴子とピエールの部屋に鍵をかけにいったのではなかろうかと思った。全く迂濶に二人の桟敷の番号を訊き忘れたのを彼は後悔しながら歩廊を歩いているうち、多分このあたりだろうと見当をつけて立ち停った。しかし、勿論、たといそこだと分ったところで中へ侵入するわけにはいかないのである。矢代はまた引き返して来た。森閑としたホールの大理石の間を、金色の欄干が身を翻すようななまめかしさで、自由に嬉嬉としてひとり戯れている。彼はふとチロルで氷河の牙の上から振り向いた千鶴子の奔放な美しさを思い出した。暫くして矢代は自分の桟敷へ這
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