ラスの椅子に腰かけると買った新聞を開けてみた。すると、「あッ。」とかすかに云って、彼は紙面に首を突っ込んだまま一心に新聞のトップを読み始めた。そこには大きく、「日華の戦争起る。」と題して一面に書かれていた。「蒙古と広東で日華戦争が起ってるんだが、大げさに書いてあるにしても、こんなに新聞のトップ一面ということは今までになかった。」
久慈はまた別のを見ると、その新聞にも日華戦争と題してトップを大きく占めていた。二人は頒けた新聞を黙って読んだ。今までとて日本と中国の危機を報じた見出しが毎日のようにあっても、いつも片隅の事件として小さな取扱いを受けていた。虚報や臆測の多い記事に馴れているとはいえ、二つの新聞の主調色をなして片隅から競りのぼって来ているこの紙上の事件は、事実の誇張としても誇張せられるだけの何事かあるに相違ない。
「しかし、これはこっちのストライキを鎮める手段か、それとも本当かまだ怪しいね。明日あたり分るだろう。」
と久慈は云った。戦争が起ればすぐ帰らねばならぬ。帰って何をするか分らぬながらも、帰らねばならぬことだけは確かなことだった。ルクサンブールの公園から続いて来ているマロニエの並木が、広場の左方の建物の間に青葉を揃えて自然の色を見せている。岩石の峡谷の底に湛えられた水を見る思いで、久慈はその樹の流れを見ていると、ふと前に見たトラックの車体の重力が凹んだ一輪のタイヤに向って傾いた風景を思い出した。張力の一番薄弱な部分に戦争が起るという戦争の原理が事実なら、あるいは中国で遠からず戦争が起るだろう。
「あたし、今夜塩野さんに訊ねとくわ。あの方外務省のお仕事してらっしゃるから、一番そんなことよく御存知だと思うの。去年だったかしら、ユーゴスラビアの皇帝がマルセーユで暗殺なされた事があったでしょう。あのときも大使館で書記官が調べ物をしてたんですって、そうしたところが、そこへ電話がかかって来たものだから、いきなり調べ物の大きな書類を床の上へ叩きつけて、いよいよヨーロッパ大戦だ。もうこんな物なんかいらんッ、と呶鳴《どな》ったんですって。何んかそれで皆さん大笑いしてらしたことあってよ。」
「今日もこれでだいぶ書類を叩きつけた者がいるだろうな。」
と久慈は云って、自分も確に周章者のその一人だったとひそかに苦笑をもらすのだった。すると、戦争が起ったということなど全く嘘のようにまた彼は落ちつけた。
ボーイがテラスへ来たので千鶴子はショコラを註文した。二十年前に藤村が毎日ここへ来ていたというので千鶴子はこのリラが好きだった。ここのカフェーはどこよりもボーイの廻りがのろくさとして遅かったが、それが一つはむかしの全盛をしのぶよすがとなり旅人にのどかな気持ちを与えた。海老茶色の革で室内をめぐらせてあるソファーもすでに弾力がゆるんでいたが、それでもまだ質の良い革やバネは、べこべこの日本のカフェーのものとは比較にならなかった。来ている客も老人が多くコーヒーに入れた砂糖の溶ける音までよく聞えた。しかし、何んと云ってもここはもう衰えるばかりだった。
「文明は西へ西へと行くという学説があるけれども、もう文明は大西洋を渡ったのかもしれないね。あるいは今ごろはアメリカを通り越して、太平洋の真ん中でうろついている最中かもしれないぞ。幽霊は海の中だ。」
罷業がつづいてからというもの、外国銀行へ流れ出す急激な金の速度にうろたえたフランス政府の顔色を憶い、久慈はそう云ったのだが、千鶴子も丁度『幽霊西へ行く』という映画で、ヨーロッパの精神が幽霊となり、物質文明とともに大西洋の海を渡ってゆく諷刺劇をサンゼリゼで観た後だった。
「じゃ、幽霊が空虚になっていなくなったからストライキ起って来たのかしら。何んでもお砂糖も明日から買えないってことよ。水道と発電所とを軍隊が守っているので、それだけはどうやら無事なんですって。」
ボーイがショコラを持って傍へ来たとき、砂糖はまだ買うことが出来るのかと久慈が訊ねてみると、自分の家は買溜がしてあるから当分は大丈夫だと答えた。
久慈はここでの先ず何よりの自分の勉強は、この完璧な伝統の美を持つ都会に働きかける左翼の思想が、どれほど日本と違う作用と結果を齎すものか、フラスコの中へ滴り落ちる酸液を舐めるように見詰めることだと思った。すると、そのボーイの無愛相なのろさまで、今に自分たちもここの家の火を消すのだと云っている顔に見えて来た。組合の発達しているフランスであるから、労働者はみなそれぞれどこかの組合に這入っている。その組合のあらゆる層が漸次に連繋をとって動き出し、賃金の値上げと休日の増加と、労働時間の短縮の三つをかかげて要求を迫り始めた罷業である。農民を除いたこの全面的な生産部門の活動の結果が、街にあらわれた休業状態の姿であるから、
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