僅かな利子のやりくりでその日をつないでいる多くの会社はばたばたと潰れていく。その会社に属している労働者は失業していく。生産品が無くなりつつあるから物価があがる一方である。労働者が賃金を増加してもらっても物価がそれを追い越して高まるうえに、莫大な金銭を落していく外国からの旅行者はみな逃げていく。危険と見てとった自国の資本家も外国銀行へ預金を変えるに随い、フランの値段が均衡を失って下落していく。
 しかし、そのような悪結果は総て初めから分っていたのだと久慈は思った。その分っていたことをやり出さねばいられぬもの、その正体はいったい何んだろう。自分の行為の結果の予想を一つ間違えば、すべてが悪結果の連続になってゆくという現実の将棊で、今やフランスという文明の盤面上の駒はその悪結果を知りつつ、駒自身が盤面もろとも自滅してゆく目的に向って急ごうとしている、ある意志に似た傾斜を久慈は感じるのだった。
 しかし、それもいったい何んのためだ。


 久慈は千鶴子と別れた後でいつも行きつけのカフェーへ行った。そこへは矢代と真紀子とが来ている筈だったがまだ二人は見えなかった。顔馴染の外人らは久慈にみな日華の戦争の起っていることを報らせ、どうだ少し日本が負けているようだが大丈夫かと心配そうに訊ねた。
「いや、あれはみな嘘だ。」
 と久慈は答えた。しかし日華の日ごろの関係も知らぬ外人の心にさえ、そんなにこの日のニュースは大きく響いているのかと思うと、事実の当否以外に、響きの方が事実となって、何事か次の芝居の人心を動かしていく瞬間の偽りを久慈は感じた。そして、それがつまりは歴史となって世の中の表面に氾濫しつつ進んでいくということも。――
 外人たちの中に混りいつもテラスに来ている李成栄という中国の画家は、特別にこの日は誰よりも大きく久慈の視線の中で幅を占めて見えた。李も久慈と視線を合す度びに視界に一点邪魔者がいるという顔つきで、煙そうに横を見て、先夜柳田国男の日本伝説集を読んでいたドイツの青年と話した。久慈と李はどちらも悪意を持つ理由がなくとも、ただ単に視線を合したことで、悪意に似た抵抗が頭の中に生じるある微妙な事実は争われず二人の間で起っていた。すると、そのとき二台連って疾走して来た無蓋自動車から、罷業の委員たちであろう、皆それぞれ熱した顔で固めた拳を空に上げ、「フロンポピュレール」(人民戦線)とこんなにテラスの前で叫びながら過ぎ去った。日日変らずに起っているこのようなことも、今日は云い合したような眼まぐるしい渦巻きを久慈の胸中に呼び醒した。
「今夜は支那飯店へ乗り込んで見よう。どういう気持ちでいるものか一つ見よう。」
 とこう久慈は考えると、出来るなら李とも話して彼らの意見を訊いてみたいと思った。しかし、それにしても、何んと考えることの多過ぎる時代になって来たものだろう。それにも拘らず自分はまだ何も知らぬ。このパリ一つでさえが、眼に触れるもののすべての面に底知れぬ伝統の深さが連なりわたって静まっている。それも必死に苦しんだ人間の脳の襞が、法則を積み重ねた頁岩のように層層として視線のゆく所にあった。過去を知ることが現在を知ることにちがいないなら、およそ自分は現在さえも知らぬのだ。それなら、ここの未来はどんなにして知ることが出来るだろう。――
 しかし、このように一歩たじたじと謙遜になりかかると、久慈はいちいちこのヨーロッパに反抗するような矢代の興奮の仕方もよく分った。それにつれて、所詮、日本人の生える土地はここにはないと、だんだん東野に教えられたままに自分の考えも流れ落ちていく不安に襲われ出すのだった。
 問題は土だ。それも農村問題や政治問題じゃない。もっとその奥の奥にあるのだ――。
 と久慈はこのように遅まきながらひとりいる自由さに、頭が故郷の土に戻ってあちこち日本の上を馳け廻って停らなかった。見るとテラスにいる外人たちのどの顔も、ある共通の淋しさを泛べている。それも皆それぞれの自分の故郷を思い泛べている顔に見えて来る。
「しかしだ。何ぜまだおれは日本へ帰りたくないのだろう。何ぜここがこんなに面白く見えるのだろう。」とこう思う。
 研究すべき宝の山へ這入っていながら、故郷の土を研究したって始まらぬ。いやそれより自分は故郷の日本の土の質さえまだよく知っているとは云えないのだ。西洋も知らなければ、東洋も知らぬ心というものは、これはいったい何んというものだ。
 そうだ。これはもう自分は飽くまで世界共通の宝を探すことだ。これこそどの国でも狂わぬというものをただ一つ探すことだ。と久慈はそんなに思うと再び活気を取り戻すのであったが、しかし、それも東野に云われたように、考えれば、共通のものというものはあるものやら無いものやら分らなかった。あると思うのは、なるほどこれ
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