誰だって真似の出来ることじゃないと思うわ。」
久慈は寝ながら窓の方を見ると、まだ矢代を弁護したそうな緊張した千鶴子の額に光線が流れ、髪が青空の中に明るく透いてますます美しく見えるのだった。一昨夜矢代や東野からさかんに痛めつけられた久慈だったが、今の千鶴子の柔い言葉が一番胸に強く応えているのは、ただ婦人だからだとばかり言いきれぬものがあった。
「もう少し云いなさいよ。千鶴子さんはなかなか云い方が上手いや。聞くよ今日は。」
こう久慈の云っているとき、刺繍学校へ通っている隣室のルーマニアの娘が小声で歌う唄が聞えて来た。いつも階段で擦れ違うだけで話をしたことがなかったが、近ごろ愛人の出来たらしい様子は日曜日のいそいそとした明るい素振りなどでもよく分った。久慈は隣室の娘の晴やかな歌を暫く黙って聞いていてから云った。
「いい気持ちだな。映画のパリの屋根の下じゃ、こういうときにどっかから手風琴が聞えて来たが、今日のはファッショのお説教か。」
「じゃ、外へ出ましょうよ。あたし、今夜は塩野さんのお約束があるんですのよ。また夜会なの。いっかも日本の鮭の缶詰をこちらへ輸入する下工作の夜会があったのよ。その鮭まだなんですって。ほんとに夜会は疲れていやだわ。」
「鮭のお使いだな。竜宮みたいでいい話だな。」
と久慈は云って起き上って来ると鎧戸を閉め、千鶴子の後から部屋を出た。階段を降りて行った下の手紙箱に日本の妹からと、旅行に出た会話の教師のアンリエットからと、二通手紙が久慈に来ていた。アンリエットは千鶴子がロンドンへ廻っている間に久慈と親密になった間だったから、特に理窟をつけて云えば、久慈と千鶴子との船中での親しさを裂く役目に効果のあった人物だった。しかし、久慈にしてみれば、パリでの婦人との恋愛に似た感情の動きのごときは一種の装飾のごときものであったので、彼こそどちらかと云えばパリに恋愛を感じているものと云える。随ってまったくこういう久慈とは反対に、故国の日本にいとおしさを感じている矢代と千鶴子との日に増す親密の度も、彼には自然に見えて淋しさも感じなかった。浮き流れる心――こういうものは故郷にいるときとは別して旅は早く移り変って抵抗し難いものがある。
久慈はホテルを出るとカフェー・リラのある方へ歩いた。行き違う人の靴がひどくきらきらと眩く光った。道路も日光の反射でときどき面を打つ強い光線に久慈は眼を閉じた。鼻さきの小窓の中に組合わされた刃物の巧緻な花の静まっているのを、わけもなくじっと眺めている千鶴子に近づき、久慈はもう何んの感動もしない自分の若い心の老い込みを、これはどうしたものだろうとふと思った。
「もう君は日本へ帰ったって君の考えは通用しない。」
と先夜東野に云われたことを急にまた久慈は思い出した。そうだ、これはもう通用しないぞと久慈は突然冷水を打たれたような寒さであたりの街を眺めた。停っているトラックのタイヤの凹んだ部分にめり傾いている車体が、均衡ある風景の中から意味ありげに久慈の視線を牽きつけて放さなかった。
「こんなに静かな街の中でも、人の頭の中には暴風が吹きまくっているんだから、おかしなものだなア。」
と久慈は呟きながらリラの方へまた歩いた。
「もう戦争さえ起らなければどんなことにでも賛成するって、ホテルのお婆さんあたしに云ってたわ。そのお婆さんは面白いのよ。あたし何も訊きもしないのに、あなたはここをパリだと思っちゃ間違いだ。こんなパリはない。もうパリは無くなったっていうのよ。よほど前は良かったらしいのね。何んでもヨーロッパ大戦のとき、アメリカの軍隊がここへ駐屯してから、すっかりもうパリは駄目になったっていうの。どうしてでしょう。」
「それや、老人は思い出だけで生きているからだ。これはこれでまた充分に意義はあると思うな。」
突然一本の煙突から吹きあがって来た雀の群れを眺めて久慈は云った。リラの前の広場へ来たとき、彼はそこで買った二枚の新聞を丸め、ある建物を指差した。
「去年だか、あそこの建物の会館へゴルキイが来て講演をしたことがあるんだが、群衆がこの広場いっぱいに集ったら、突然警官隊が騎馬で殺到して来て群衆を蹴散らして、一人も講演を聴かせなかったというね。そのときは恐かったそうだ。今年の巴里祭はもう一層凄いということだが、あなたもそれまでいなさいよ。何事が起るかこの様子じゃもう分んない。昨日は罷業の会社がもう三百になっているんだもの。重要な会社が三百も閉鎖したなら、それやもう革命も同じだからな、右翼の火の十字団はもう決死だ。何んでもドイツの右翼と手を握り出したというから、もう僕らには訳が分らない。」
「じゃ、もうここは国と国との戦争は起らないのね。」
何ぜそんなになるのだと問いたげな千鶴子の視線に、久慈は黙ってリラのテ
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