しているだけでこれも誰とも話さなかった。東野の横では、ドイツの青年が柳田国男の日本伝説集という原語の本を読み耽っていたが、その他の者は皆それぞれ自国語で左翼の話をしていた。中には激論をした揚句卓を叩き出したので、ボーイが用命と間違えて出て来たりした。
食事を終ったとき、久慈と東野は食後の気怠さを感じてしばらく黙っていた。すると、久慈は突然東野に訊ねた。
「あなたは左翼にも右翼にも、本当に興味を感じないのですか。そこを僕は訊ねたいのですよ。どっちなんですあなたは?」
「僕は君にさきからそのことばかり話したつもりだったんだが、まだ話さなくちゃならんかね。」
と東野は気乗りの失せた声で外人たちを眺めながら答えた。
「いや、僕はまだ聞かないな。」
「僕には外国の左翼とか右翼とかより、ここへ巻き込まれている日本人の君の方が、よっぽど見てるのには面白いんだ。ほんとうに君なんかこれから日本へ帰って、いったいどうするつもりだろうと、その方が心配だ。」
「ふむ。」
と久慈はひと言いって一寸黙った。
「いったい、君は帰ってからどうするつもりです。もう昔のように、外国へ行ったからといって何の価値も出る時代じゃなし、ここで習得した左翼や右翼の理論を、そのまま日本へ当て嵌めて考えたって、間違いだらけになるのは定ったことだし、そうかといって、来る前と同じで君がいられるわけのものでもないでしょう。もう君にしても僕にしても、物を見る意識が狂ってしまっていることだけは事実なんだから、そんならこれからの自分の正確さを、どこでどうして調節をつけるかという問題があるだけでしょう。」
「一寸待って下さい。」
久慈は一層考える風に頭をかかえテーブルの上を見詰め始めた。
「僕らの意識が狂っているとは、それはどういう意味です。」
「僕も君も、僕らの見てしまったものと、頭で考え出した言葉と、一致させて表現することが出来なくなってしまっているのですよ。こちらへ来ない間は、外国のことを読み聞きしても、まだ実物を見ない有難さで、それぞれ勝手に描いた幻想に意味をつけて、それを公式のように正当だと感じることが出来たけれども、もう僕らはその幻想も壊れたし、壊れたことに意味もつけようがなくなった。ざま見やがれと笑われているようなものだ。」
東野はこう云って自嘲を浮べた淋しい笑顔のまま、さきから見つづけていた一人の外人の婦人の顔から眼を放さなかった。
「しかし、人間の認識は外国だろうと日本だろうと、変るものじゃないじゃありませんか、そんなことに変化があれば、だれも知識を信用するものがない。僕らは日本で感じていた近代思想の本体というものが、ここじゃどんなにして動いているものかということを、見学しに来てるんだから、思想を裏付けているものを見れば見ただけ、僕らは豊かになったわけでしょう。」
「それだから君の方が心配だというのですよ。見学したものが、そのまま通用しない場合、君はどうするんです。ここで見たものと共通したもので、日本にあるものは、ほんの少しだ。それを全部日本にあると思っているのが日本の知識階級だ。だから、何んだってこっちの真似をすぐしたくなる。さア、大衆は動かん。どっちもこ奴も阿呆だと思い合う。」
「しかし、それや、そんなに日本人に間違いがあれば、間違いだと僕たち何かの形で云わなくちゃならん。黙っているよりも、少しでも云う方が良いのですからね。」と久慈は云った。
「ところが、日本人の知識階級じゃない大衆の考えていた方が、正しい場合どうするかということだ。僕ら外国を見てしまったものよりも、まだ見ない大衆の方が、正しいということの方が、随分多くなって来ているこのごろですよ。」
「間違いでも正しいとしとかなくちゃならんか。」
と久慈はいまいましそうに云って俯向いて笑った。云うだけ云った東野はもうこのときから久慈の言葉も聞えない様子だった。彼の前から見ていた眼の異様に青い美しい婦人は、文士の主人がその傍にいるにも拘らず、出版屋の頭の禿げた片眼の男に強く抱きかかえられていたからだった。美男子の主人は、妻がだんだん強く片眼に擦りよられ嬉しげにくつくつ笑っているのを、さも得意らしい薄髯顔で見ぬふりを保ちながら、平然と横の客と英語で左翼の話を闘わしていた。
そのとき、入口からあちこち見廻しつつ日に焦げた矢代が這入って来た。彼は久慈を見つけるとよって来て軽く肩を打った。
「やア、いつ帰った?」
「今だ。」矢代は久慈の横に腰を降ろし、久し振りの食事場を懐しそうに天井まで眺め始めた。
「しかし、東野さん。」とまた久慈は眼の青い婦人の動作を熱心に見詰めている東野に云った。
「僕らは日本に帰ってからの自分について考えるよりもですね、もうこれから永久にここにいるんだと思って、自分のことを考える方が、こ
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