の普遍性を求めて苦しんでいるときに、事物や民族の特殊性ばかりを強調しようとするんですよ。その点あなたは矢代と同じですね。矢代はまだあなたのように落し穴を造らないけれども、あなたと話をしていると、言葉の一般性というものが役に立たなくなるんですよ。実際あなたほど非論理的な人を、僕はまだ見たことがありませんね。そんな所に僕は進歩があるとは思えない。無茶だあなたは。」
「まア、食べてからにしようよ。何も僕は君の云うことは間違っていると云うんじゃないのだから。――君は将棊《しょうぎ》を知ってますか。」
と東野は急に頓狂な顔になって葡萄酒を飲んだ。
「何んです。また落すんですか。」
「うむ、落して見ようというのだ。落してみせるぞ。」
「いや、もう落ちん。」
と久慈はかぶりを振ってスパゲッティをフォークに巻きつけ急いで食べた。
「それじゃ駄目だ。落ちるべき所へは落ちて見なきゃ、科学主義には実が成らない。君は人の云ったりやったりした安全な所ばかりを、選んで歩こうというのですからね。ヨーロッパの科学というものは、皆落ち込む所へは落ち込んで来たからこそ、こんなに花が咲いたのでしょう。君は道に外れちゃいかんと思って科学に獅噛みついているけれども、道というものは、初めからついてるものじゃない。君の道は君がつけるので、他人がつけてくれるものじゃない。」
久慈は迷宮をたどる気疲れを感じてほッと吐息をつくと、このおやじの武器は一種妙なものだとうすうす気が附いて来るのだった。
「僕にはあなたのように、自分の論理とか他人の論理とかとそんなにやたらに論理の種類があるとは思えませんがね、もしそんなにあるなら、何もわざわざ論理を知識と呼ぶ必要はないでしょう。みなあなたのは感覚だ。感覚は公然たる知識じゃない。」
「感覚のない知識とはどういうものか、それや僕には分らないが、とにかく、まア今夜は御馳走というこの実証的感覚へ落ち込みなさい。そうすると、料理という技術が分る。技術のない知識なんて科学じゃない。何事も感覚から起ると思えば、得こそすれ損はないでしよう。あなただってわざわざヨーロッパくんだりまで落ち込んで、ここの感覚一つも分らなけれや、ヨーロッパの技術の秩序と科学の連絡が分らなくなるばかしじゃないですか。何をそう苦しんで、馬鹿になる要があるのです。」
落されつづけた久慈は、尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1−94−21]骨の振動めいたものが脳に響き葡萄酒の廻りも早かった。すると、疲れもアルコールと一緒になくなり、久慈は一層生き生きとして来た。背中をソファーのモロッコ革から起す度びに、体温で革にひっ附いていた服の剥がれる響がびりびりと背に応えた。
「今日はお年寄りに花を持たせますよ。まアこれもやむを得ん。」
と久慈は云って、出て来た鳥の足を掴むと噛みついた。
「何アに、そう元気を無くしたもんでもないさ。パリは年齢なんて無いんだからな。ここには普遍性という論理の皮をひきむく駒ばかり揃ってるから、そいつを使わん手はないのだ。将棊に桂馬という駒があるが、何ぜ、あ奴はあんなに斜に一つ隔いて飛ぶのか、まだ君は知らんのだ。いざというときに、王さまを降参させるのはあ奴だからな。僕は今夜は君に王手飛車をかけてみたのだが、どっちをくれる。さア、返答せい。」
なごやかに笑い合っていたときとて、突如としてその中から突き出された東野の剣先には、一層久慈も返事の仕様がなかった。黙って葡萄酒を東野のコップに注ぎかけようとすると、ぴたりと彼はそのコップの口を抑えてしまった。
「返答だよ。飛車か王か。」
冗談にしては厳しい、そのくせ悪戯けたような東野の顔は、返答一つでお前の価値は定るのだと云っている。
「よしッ、そんなら今夜はどうしても負かしてやる。真剣勝負をやろう。」
と久慈は云って葡萄酒をぐっと飲み乾した。
「王さまも飛車も手放しか。」
と東野は急に盤面を引くり返したように、にこにこしながら今度は彼から久慈のコップに酒を注いだ。
こちらが力を入れるとすっと脱し、うっかり気をゆるめているときに不意に面丁へ撃ち込んで来る東野の癖に、久慈はもういらいらとして来た。洞のような奥まった部屋いっぱい煙草の匂の籠った中で、あちこちから左右両党の議論が盛んに起っていた。共産党の活動はトロツキストの方が優勢だとか、スターリン派との黙契がトロツキストとの間に出来て来たとか。北方の県とマルセーユ附近が最も罷業の火の手が熾んだとかと云う話の間で、いつも姿を見せるドイツの前の大蔵大臣だったと噂されている小さな人物だけが、いったいの話には何の興味も起らぬらしい様子で、食後のコーヒーを黙って一人飲んでいた。ロシアの王子だと云われる背のひょろ長い、眼の鈍った額の狭い青年も、絶えず人人の間を往ったり来たり
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