ちらにいる限り有益だと思いますがね。」
「この通り、今夜はやられてるんですよ。」
 と東野は矢代を見て云った。
「あなたがですか。」
「勿論、お向いさ。」
「馬鹿云え。」と久慈は頭を立てた。「この東野という人はね、矢代とよく似たようなことを云うのだ。ただ君より一寸落し方が上手だよ。だいたい、僕は日ごろから天下の公論に興味を覚える方だから、世界に通用する話じゃなくちゃ、話したって損するだけだと思うんだ。ところが、君や東野さんは、日本でだけより通用しそうもないことばかりに、話を引っ張り込んで、僕の呼吸を停めてしまう計画ばかりに夢中になるのだ。僕ら日本人の考えを、日本でだけ通用させて得得としていられる了簡が、一番日本を誤るもとだ。それや、もう定ってるじゃないか。そのどこに誤りがあるんだ。」
「自分を誤ったものが、世界を救おうってわけか。」
 と矢代は山で休ませて来たばかりの鋒さきを一本ぶつりと刺し入れた。
「何んだそれや。」
 久慈は矢代を暫く睨みつけて黙っていたが、すぐにやりと笑うと、
「君は日本を愛しているのじゃない。日本に恋愛をしているのだ。恋愛だけは科学の歯は立たんからね。」
「歯の立たんものもあるというのが、やっとこのごろ分ったんだろ。」
「そ奴が日本を滅ぼすというのだよ。」
「日本を滅ぼしかけてる奴は、もうそろそろ出てるかもしれんぞ。」
 矢代と久慈との渡り合い出したその後で、眼の青い女を抱きかかえた片眼は傍見もせず、しつこくかき口説きながら女の唇の傍へ自分の口をよせていった。その傍で女の亭主は倦くまで理想主義のトロツキストを支持しつつ、現実主義のスターリン派を罵倒してやめなかった。
 久慈と矢代の頭も、そのアメリカ人の英語が強く響いて来て議論もぱったり停ったままだったが、突然、久慈は、
「しかし、僕らから理想がとれるか。理想をとった頭というもので、どうして建設が出来るのだ。」と矢代にいら立たしい声で詰めよった。
「翻訳語で理想を考えるというのは、どういうことかね。田舎者が標準語で都会の理想ばかり考えて、死んでしまうことを云うのか。」
 久慈は、はたッと言葉の途絶えたまま少し拳を慄わせた。
「僕らがこの世界のヒューマニズムに参加しようと努力せずに、学問の進歩があり得るか。道徳というものが成立すると思うのか。」
「しかし、僕らの東洋にだってヒューマニズムはあるよ。ちゃんとあるよ。ところが、この西洋のヒューマニズムとはちと違う。どっちが善いかは今云いたくはないが、違うなら接近させるためだって、僕らは少しは自分を考えねばならぬさ。自分をね、日本をね。」
 久慈は笑いが口中へめり込んでいくような苦苦しい微笑を浮べると、急に嘲るように低声になった。
「ヒューマニズムに東洋と西洋の別があるか。それがなければこそ、僕らはその理想を信仰するんじゃないか。」
「自分が、知識階級だという虚栄心で、東洋と西洋とのある区別さえ無いと思う習練を永久に繰り返すのかね。つまり、それは君の習練だよ。」
「その習練が分析力の結果なら、それは世界を守る道というものだろ。誰も動かすことの出来ぬ道というものは、たった一つ厳然としてあるのだ。それを探すのが分析力だ、いったい、分析力に西洋も東洋もあるものか。同じ共通のもので負けてれば、負けてる方が弱いのだ。それだけは仕様があるまい。」
 と久慈はとどめを刺すように片肩を引き降ろして矢代を見据えて云った。
「負けたとこばかりより君に見えぬのだよ。勝ってるところまで負けにするのが分析力だ。見て見ろ、ここのこのざまは、これで全身が生きているといえるのか。」
 久慈と矢代のつづけている論争の傍で、東野はもう二人の争いなどうるさそうに、片眼の男が女を口説く毛物のような爛爛として無気味な表情を、眼を放さず見詰めていた。女の亭主がパリで一旗あげる心算で、出版屋の片眼に妻を自由にさせているものか、あるいは妻が、良人の出世を希う一心で男のするままに応じているのか、そこの秘密を知りたい東野の眼つきは、前からいささかも弛まなかった。しかし、文士の亭主はどういうものか妻の不貞に関して少しも動じる色がなかった。彼は理想派のトロツキストが必ず近い将来に於てスターリン派の行動と衝突を来し、パリの罷業は資本家に乗じられるであろうと主張していた。
 彼の主張は、妻の心の隙間に乗じている片眼の男の獣性を諷刺しつつ語っているものかどうかも、東野は心を鎮めて眺めているのだった。
「もういいかね。いいならそろそろ出て場を換えよう。」
 東野は、片眼が女の唇を盗もうとした瞬間、つと横を向いた女の動作を見終ると二人に云った。久慈がボーイに計算を命じてからも二人は暫く黙っていた。通りへ出ると、鋪道に拡がっている並んだカフェーのテラスに人がいっぱいに満ちていた。
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