ならない方に比べて幾らか仕合せな方だから、なるたけ与えられた仕合せだけでも、楽しく守っていなければ、罰があたると思いますの。ね、そうじやありません。」
千鶴子の考え方には矢代もすぐ返事をすることが出来なかった。自分の幸福なときにその幸福を守りたいと願う婦人の苦心が、いかにも一見反省の足りない考えかのように思われがちな社会になりつつあるのだった。
「あなたのお考えにはなかなか大胆なところがあるんですね。」
と矢代は当面の答えとして先ず安全と思えることを云った。
「だって、あたしたち、なかなか幸福は得られないんですもの。あたしには少し人より早く幸福らしいものが来たんですから、やはり大切にしたいわ。あたし、何んでもそう思いますの。いけないかしら。」
千鶴子は優しい眼ざしで矢代の眼を窺った。
「それや、それより本当のことってないんですからね。誰も彼もみなあなたのような気持ちになりたければこそ、騒いでるんでしょう。今パリがそうだ。」
「そうかしら。」
千鶴子は思いがけないことを云われたように微笑しながら、梢の間に動く早い断雲に眼を向けた。自転車に乗って来た子供の太股の白さに日光が射していて、微風に蔓草の揺れる間を、切れるようなズボンの折目の正しい紳士が一人静かに歩いて来た。
「でも、あたし、実は何も考えることがないんですのよ。何かしら、高いお山の上に立って遠い所を見てるようよ。」
「ふむふむ。」と矢代もただ軽く頷くだけだった。見るだけ見ておけば良いときに、他人の欠点や美点をあげつらう気力は今の彼にはもうなかった。
後ろの方の小説の音読をしてやっている老婆の傍で、黙って聞いていた他の老婆が、小説の進むにつれときどき驚きの声を上げた。細い山査子《さんざし》の花が、畝の厚い縮緬皺の葉の中から、珊瑚に似た妖艶な色を浮べているのを矢代はじっと見ていると、傍の千鶴子もだんだん花そのもののように見えて来るのだった。
「何んて美しい花だろう。」
と矢代は思わず云った。
人と花とがこんなに一つに見えるということは、今までの彼にはまだ一度も経験のないことだった。胸は溺れるように危い心を湛えているのを覆すまいとしながらも、また危さに近づくように山査子のその巧緻な花を、身を傾け眼をすがめ飽かず矢代は眺めずにはいられなかった。二人は公園の中を廻り池の傍へ出たときに、
「今夜はアルサスの羊が食べたいわ。ね、アルサス料理になさらない?」
と千鶴子はいつもとは違い感覚の行きわたった軽快な微笑で矢代を誘った。
樹間をぬけ日のよくあたる広場へ出ると、またそこには一面の山査子《さんざし》だった。初めは人に気附かせぬ花である。しかし、一度びはっと人を打つと、心をずるずる崩してしまわねばやまぬ花だった。
矢代は千鶴子に近づく思いでまた酔うように山査子の花の下へ歩みよったが、これではいつドイツへ一人旅立つことが出来るのだろうかと、だんだん怪しくなって来るのだった。
二週間毎にマルセーユへ著く郵船の船と、シベリアを廻って来た汽車から新しい日本人がパリへ現れた。ドームにいても矢代は日日古参になって行く自分を感じた。妻を日本に残して来ている日本人たちは、シベリアから来る妻の手紙のない週は誰も憂鬱そうにしていたが、手紙の来た日は暢暢と元気が良く一眼でそれと見当がついた。中には恋人から来る手紙に不安な箇所が現れたというので、一寸一ヵ月日本まで走って帰ってまた来るという青年もいた。そうかと思うと、日本にいる細君に宛て、愛人が出来たが心配をするななどと、わざわざ書いて出す剽軽なものもあった。
しかし、総じて二、三年パリにいる人という者は、新参の日本人に一番冷淡でうるさがったし、またこれらの人人は最も激しいヨーロッパ主義者であることには一致していた。しかし、こんな人人が日本を軽蔑する理由は、すべて日本人がヨーロッパを真似し切れぬという一事に帰していた。なるほど、彼らの云うように日本には悪い所が多かった。第一に貧民が多い。肺病が満ちている。農民が娘を売るほど野蛮である。公娼が都市発展の先頭に立って活躍する。知識ある者が他人の欠点を鵜の目鷹の目で探し廻る。文化といえばヨーロッパとアメリカの混合である。悪点を数え上げれば、およそ良い所がどこにあるのかと云いたいほど数限りもなく沢山にあった。しかし、も少し考えると、それらの欠点は日本人の美点から生れて来た、他国には見られぬ花の名残りとも見られる球根につづいていた。またよし譬えそれらが汚点としたところで、矢代は、それらのいかなる悪点よりも、自然を喜ぶ日本の文明の中には悪人が少いと云う美点を何より喜ぶのであった。彼はこのような自分の考えの中に野蛮人が棲んでいることを感じないではなかった。しかし、それはヨーロッパの知識の中に潜んでいる
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