葉だって、モンパルナスあたりの言葉を一寸でもサロンで使おうものなら、もう相手にしてくれないんですって。ですから、言葉が自由になればなるほど、一層自分の言葉の欠点が分って不安になるので、それで神経衰弱になるんだと仰言ってたわ。」
「ふむふむ。」
と矢代は一一もっともと頷いて聞いていた。これで眼にするパリのさまざまなものに感動するだけだって、相当激しい労働だと矢代には思われるのに、まして遊んで城を落さねばならぬとなると、その苦心は察するに難くはなかった。
「洋服なんかあなた困りませんか。」
「それは困るわ。あたし、お蔭でサロン用の、これで三つもサントノレで造りましたの。」
「一度僕にもたまには着て見せてくれないかなア。」
と矢代はサロンに出ている千鶴子の様子を想像して笑った。
「ほんとに見ていただきたいわ。そのうち、一度オペラへ行きましょうよ。ね。」
と千鶴子は明るい顔で矢代を見上げた。
「それや、賛成だな。」と矢代も愉快そうに空を見て云った。
ルクサンブールの公園の、ある繁みの下にある鉄のベンチは、矢代と千鶴子の休息の場所になって来た。矢代は自分の仕事の歴史の著述を一つするためにも、もうそろそろ皆から別れて一人ドイツへ旅立たねばならぬと思っていた。またもう一度パリへ戻って来るとはいえ、そのときには千鶴子はここにいるかどうかも分らなかったが、まだ二人は別れ難ない友情にまでどちらも深まってはいなかった。ただ季節は五月で、一本の樹の花を眺めてさえ心に火の点くような美しさを感じるのに、それが街街の通りや公園に咲きあふれているマロニエの花の眺めである。矢代もこのうっとりとする旅の景色を一人で眺め暮すよりも、二人で眺め楽しみたいと思った。
しかし、この五月の一番見事な季節になってから、パリの街街には左翼の波の色彩もだんだん色濃く揺れ始めて来た。殊に総選挙の結果、社会党の大勢が明瞭に勝ち始めてからは一層それが激しくなるのだった。
こんな日のよく晴れたある午後また千鶴子と矢代は公園で会った。
靴先のひどく立派に光った老夫婦がゆるやかに足を揃えて歩いて来る。その木の間のどこからか、弾んだゴム毬のだんだん力を失う音がした。
二人は無言のまま青芝の上に散っている鳩の羽毛を眺めているとき、急に千鶴子は思い出し笑いをして口に手をあてた。
「先日塩野さんが、ノートル・ダムの写真を撮りにいらしったんですのよ。あの方、お写真の方が専門だから、いろいろな角度からお撮りになっているうちに、とうとう鳩の糞のいっぱいある地面へ仰向きに寝転がって、上へカメラを向けたの。そしたら、傍で見ていたアメリカの観光客の一人が、自分もその通りに仰向きに寝て撮ってみてるの。」
矢代もおかしくなってつい笑いながら云った。
「塩野という人は、なかなか気持ちのいい方ですね。まだ長くこちらにいらっしゃるんですか。」
「何んですか、もうすぐ帰るようなこと仰言ってたわ、ノートル・ダムを撮ったのを全部集めて本にしたら、もうそれでいいんですって。」
もう日本へ帰るのだという人のことを聞く度びに、矢代は羨ましい気持が失せなかった。
「千鶴子さんはいつごろ帰る予定ですか。」
「あたしはいつだっていいんですのよ。ただね、暇なうちに一度こちらを見ておかないと、女ですから、見る機会がなくなるでしょう。」
「じゃ、なるたけ今のうちに、いろんな所を廻られる方がいいな。でも、よく御両親があなた一人を放されたものですね。」
と矢代はいつも訊き忘れていた疑問を自然に訊ねてみるのだった。特別に信用されている自分を説明するのに困るらしい千鶴子は、
「それや、兄がこちらにいるからでしょう。別に何も云いませんでしたわ。」
と短く答えた。
「しかし、兄さんも御心配じゃありませんでしたか。パリへあなた一人でいらっしゃるの。」
「そんな事、兄なんか心配してくれるものですか。それに、お船の中のお友達のこと、あたし兄に話したんですもの。」
矢代は黙って頷いたが、千鶴子の一人旅は良い結婚の相手の選択の機会を彼女に与えるために、兄も両親も赦したのにちがいないのであってみれば、自分が千鶴子へ馴馴しくすることは、それだけ彼女の良縁を払い落す結果になっているのかもしれぬと思った。
しかし、ヨーロッパへ来る婦人たちは、男性と違って自分の研究目的を明らさまにするのを嫌う習癖の多いのを聞き知っていたので、千鶴子もこれでひそかに研究する何事かあるのだろうと矢代も思っていたのだった。
「千鶴子さんはわざわざパリまでいらしって、何か研究してらっしゃればいいでしょう。そんなおつもりなんですか。」
「あたしはただ見るだけにしたいと思ってますのよ。でも、あたしなんか、何も出来ないつまらない女なんですもの、ですから、まア普通に働かねば
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