とされているサロンへ、どうして出入するようになったのか矢代はそれを訊ねてみた。
「それはあたしも自分で知らなかったのよ。初め塩野さんが仕事をするのに人手が足りないから助けてくれと仰言るんでしょう。ですから、あたしはいつでも暇だからって云っておいたら、実はこうだと云って、フランスの大蔵大臣のサロンへ出るのに、一人婦人が足りないので困っているんだと仰言るの。」
「大蔵大臣って、どうしてあの人が大臣と交際しなくちゃならんのです。」
 と矢代は不思議に思ってまた訊ねた。
「あたしもそれが分らなかったんですの。ところが、こうなの。日本は今丁度、鮭の缶詰をフランスへ輸出してるんだそうですのよ。それがフランスの法律でもうこれ以上は輸出困難というところまで来てるもんだから、その法律をね、何んとか自由にする工夫をして、もっと輸出しなくちゃならないっていう算段なの。日本の大使館必死に活動してるのよ。そんな仕事に大使がいきなり出ては駄目でしょう。大使の出るまでにいろいろ下の者が、工作をしておかなくちゃならないから、その工作にサロンを利用するらしいの。でも、塩野さん、パートナーがないのでどうもやり難くって困ると仰言るの。」
 矢代はそこまで聞くと千鶴子のいうこともようやく頭に這入って来た。
「じゃ、あなたもいろいろ鮭のことを質問するんですか。」
「いやだわ。あたしはただ、サロンで踊りのお相手したり、向うの秘書官とお茶を飲んだりしてればいいのよ。その間に塩野さんたち、だいたいの向うの意向を探るんでしょう。」
 こう云う話を聞くと、矢代は手近に今までいた千鶴子も、遠く距離を放して生活している婦人のように見えて困るのであった。
「それじゃ、なかなか面白いことも多いでしょうね。」
「ええ、たまには、ありましてよ。この間も一度、ピエールっていうフランスの若い書記官があたしの手に接吻するんですの。あたしまごまごしちまったわ。」
 千鶴子は手の甲を一寸拭くように撫でてみてからまた云った。
「でも、パリの上流のお嬢さんにはあたし感心しましてよ。日本とはよほど違うと思ったわ。十八で難かしい哲学の本を読んでいて、男の人たちに質問して来るんですの。あのブロウニュへ行く道の、アベニュ・フォッシュにある家よ。下のホールが銀座の資生堂ほどもあって、別室にマキシムのコックが来ているんですの。あたしたちそこでお料理やお茶を飲んでから、ホールで踊るんだけど、でも、壁なんか綺麗なものね。タペストリも皆ゴブラン織で、ルネッサンス時代の大きな彫像が置いてあって、ほんとに素晴らしいクラシックよ。」
 書生には少し不似合なこんな話を矢代はふむふむと興味をもって聞きながら公園へ這入った。すると、千鶴子とよく坐るベンチの方へ足が自然に動いていった。鉄の卸問屋の次女である千鶴子は金銭に不自由がないとはいえ、パリの最高級のサロンへ出入すれば予期しない贅沢な心も植えつけられるであろうが、若い時代に人の見られぬものを見ておくのも、思い残さぬ後の慰めとなって、心も休まるであろうと矢代は羨しく思うのだった。
「あなたはサロンへなんか出這入りするようになられちゃ、僕たち話し難くなりますね。」
 と矢代は笑って空を仰いだ。
「そんなものかしら、でも、あんな所へ始終いってる男の方たちは、気骨が折れると思うわ。あたしたち女はただじっとしてればいいんだけど、男の方は家へ帰ると、もう骨なしみたいに、ぐったり疲れてらっしゃることよ。」


「塩野君なんか、あれでサロンの技術は上手いんですかね。」
「あの方は気軽な方だから、どこでもさっさとやってらっしゃいましてよ。向うのお嬢さんなんか、逢ったとき頬へ接吻するでしょう。あんなときでも上手にちゃんと顔を出してらっしゃるし、サロンのお嬢さん方をマドマアゼル何何なんて呼び方で、呼ばなくってもいいようなサロンも幾つも持ってらっしゃるの。マドマアゼルを除けて相手を呼ぶようになるのには、どうしても一年はかかるんですってよ、あの方たち、そんなサロンを一つ造ってくる度びに、さア今日は一つ落して来たって云って、はしゃいでらっしゃるのよ。おかしいってないの。」
 矢代は妙な生活の苦労もあるものだなアと眼新しい感じで千鶴子を見ながら、
「つまり、サロンを落すのが仕事なんですか。あの人たち。」
「そうなの。ですから、あの方たち、日本人に不平を云ってらっしゃるのはね、日本人が大使館員を冷淡だと怒ったってこっちはそれどころじゃない、一つサロンを落すのだって、城を落すようなもので、疲れて疲れて溜らないってこぼしてらっしゃるのよ。あたしも、無理がないと思いましたわ。」
「それや、そうだな、日本人の心配を引き受けるのは領事の方の仕事だから、日本人のサービスまでいちいちしておられないだろうからな。」
「それに言
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