野蛮さとはおよそ違った感情の美を愛する蛮人だと思った。矢代は自分の仕事の歴史の著述を進める上にも、一度この違いを突きつめてみてから根拠をそこに置き、人間の生活の発展に連絡をつけねばならぬと考えるのであった。このような考えが日に深まるにつれ、彼はいよいよパリをひとり放れてゆく決心もついて来たが、千鶴子という一個人にふと想いが捉われると、頭の中に描かれてゆく人間の歴史も停頓する微妙さに、これはただの冗談ではすまされぬ人間の基本の苦しさだと苦笑し、あきらめ、また味いつつ、さらにこの思い切り難い心の切なさから、欲深く思想の本体さえ掴みしめたいとも思うのだった。
 ある日、ドームで千鶴子と矢代がショコラを飲んでいると、丁度二人の前で、黒人の女と白人の男がしきりに何事か睦まじそうに話し込んでいたことがあった。
 矢代は見ているうちに、どうしても一致することの出来ない人種の見本を眼のあたり見ている思いに突き落され、その二人の間の明白な隙間に、絶望に似た空しい断層を感じて涙がにじみ上って来た。こんなことにどうして涙が出るのだろう。これは自分もよほど神経衰弱が嵩じているのだなと思い、なおもじっと二人を見ていると、見れば見るほど涙がとめどなく流れ出て来た。
「いやね、どうなすったの。」
 と千鶴子も矢代の涙を見たものと見え、そう訊ねた。
「何んでもないですよ、ここはもう、人を愛するなどということは出来ないとこだと、分って来ましたね。」
「どうして?」
 千鶴子は一瞬眼を光らせて矢代を見た。
「愛じゃもうここは運転しない。技術ばかりなんだ。それももう技術まで終りになって来たのだなア。」
「じゃ、何があるの。」
「何もない。」
 千鶴子にはもう矢代の気持ちが全く分らなくなったらしい驚きの表情で黙った。
「しかし、僕はパリがこのごろだんだん好きになって来たのは、ここには僕らの求めるものが、何もないからだということが、分って来たからですよ。力の延びてしまった横綱の負けてばかりいる角力を見ているみたいなもので、化粧廻だけ見ている分には、のどかな気分で、気骨が折れないからな。」
 ぶつりぶつりと切りまくってゆくような矢代の云い方は、ただ乱暴なというより、捨身のような快感に自分を晒し出したい切なさがあったが、事実矢代はこういうと同時に、自分の言葉の強さに随って幾らか安らかになるのだった。
「ここは人の休みに来るところね。休もうと思えば幾らでも休める所ですものね。」
 と千鶴子も、今は当らず触らぬことを云って矢代のいら立たしさを慰めようとするのだった。
「そうそう。人が休むときには、どんな顔をして休むものか、僕らは見に来たようなものですよ。僕はここでいろいろなことを考えたけれども、結局、人は働かねばいられぬということだけが明瞭になりましたね。心の故郷というのは、働くということより何もないのですよ。」
 千鶴子は、はっきり手の指の影まで映る道路の面から、照り返っている真鍮の鋲の光りに眼を細め、
「でも、それは皮肉よ。あたしなんか何も働けないんですもの。これ、こんな手。」
 と矢代の前へ一寸両手を出して見て笑った。
「あなたなんかは物の批評眼を養いに来たんですよ。パリなんてところは、僕らの生きている時代に、これ以上の文化が絶対に二つと出ることのない都会ですからね。見ただけでもう後は一生の間、何んだって安心して批評が出来ましょう。だから、ここにいるからには遊ばなきア損ですよ。日本の農村の売られる娘のことなんか考えていちゃ、ここでは力は養えない。」
「じゃ、あたし、サロンへまた行ってもいいんですのね、それをこの間から伺いたかったの。」
「あなたなんかしっかりと遊べるだけ遊んで帰りなさいよ。それがあなたの務めだ。人に気がねなんか今しちゃ駄目だな。」
 矢代にしては思いがけない答えを引き出した喜びに千鶴子は肩を縮めて見せ、
「それであたしも安心したわ。実は明日の夜も六時から、一つ出るところがあるの。プレデイリ・オネーの頭取さんのサロンよ。」
「とにかく、僕もあなたと楽しく遊ばせてもらいましたが、もうそろそろお別れしましょう。僕はミュンヘンからウィーンの方へ行かなくちゃならんのですよ。」
 云い難かったことも矢代は意外に躊躇なくそんなに云うことが出来ると、いよいよそれではもう実行にかかるべきときが来たと、心をひき緊めて行くべき遠くの空を胸に思い描くのだった。千鶴子は矢代の突然の話も、さきからの彼のいつものと違う変化を知っているためか、さして驚いた風はなかった。
「じゃ、景色のいい所があったら、電報を打ってちょうだい。そしたらあたしすぐ行きましてよ。行く先のホテルの日を験べておいていただけないかしら。」
「そうしましよう。」
 と矢代は云った。しかし、彼は心中、もうこのあたりで 
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