子は、ちょっと詰った表情で肩を竦めてから、嬌態を整え直すと意外に緊った生真面目な顔で、
「お帰りなさい。」と久慈に云った。
「やア、しばらく。」
久慈も別に不愉快そうでもなかった。開いた眉の間で二人が何か一言ものいいかけたそのとき、突然拍手が部屋の一隅から起った。すると、つづいて起った拍手に部屋はどよめき立った。突き崩された二人は見合せた顔の遣り場もなく、真紀子はすぐ自分の席へ逃げ戻った。料理が出て来た。銚子を配るもの、皿を並べるもの、大鉢を擁えたもの、それらのごたごたと立ち動く気分に巻き込められた一端から、世話役の塩野は久慈と大石の無事帰朝を慶ぶ歓迎の挨拶をのべた。祝杯があがると寛いだ歓談が始まった。
渋色に塗った低めの長い食卓には、鉢から移された前菜の、生海胆、琵琶湖産の源五郎鮒の卵巣、日向産の生椎茸の油煮、熊の掌の煮付に添えたひじき、鴨のロース、仙台産の味噌で包んだ京の人蔘、など、これらが織部の小皿に並んでいる。手釣りの黒鯛を沖で叩いて締めた刺身、つづいて丸い伊豆石を敷いた大鉢の中には鮎が見えた。しかし、一同の客たちには、これらの懐石料理は一向に興味をそそらないようだった。談は千鶴子の兄の由吉の噂を中心にして拡がった。今ごろはロンドンへ着いたばかりであろうとか、枕木嬢とその許婚の伯爵との間に挟まれた由吉の軽妙な態度とか、それらの談を笑わせながらするのは、肥満した体に似合う薄めの縞のワイシャツを着た平尾男爵であった。若手の外交官の間でもっともフランス語に熟達している噂の高い速水は、クレギイ会談の通訳の労もとったりしたにも拘らず、スイスへ転任して以来の大石の書記官ぶりを聞くよりも、彼から山登りの談を聞きたがった。大石はパリで久慈や矢代が見たとき、誰より眼光鋭く神経質に痩せていたのも、今は見違えるように肥っていて、絶えずにこにこ笑っていた。パリの上流のサロンを落す名人だったこの大石ほど風貌の急変した人はなく、またこの人物ほどどこの婦人からも好かれたものも少なかったが、彼はいつもあまり喋らなかった。
「いったい、この懐石料理というのは、どういう意味だい。名前だよ。」
と突然、音楽家の遊部が云った。誰も一寸談をやめたが、彼に答えたものは一人もなかった。
「それや、河原の石を集めて、漁ったばかりの魚を焼いて、そこで食うのが一番だということさ。」
と東野は云った。
「じゃ、野蛮人の名残りだな。」
「しかし、盆栽みたいに陶器で包んで丸薬にしたんだからね。ここまで来るのも、相当永い旅をしているよ。」
「こういうものを食っちゃ、これや、戦争には負けだ。」と、遊部は源五郎鮒の卵巣を箸で突っついて、一口舐めた。
「誰もしかし、良い潮どきに帰って来たよ。これからはどこの国の歴史も、見知らぬところを旅するんだからね。僕らはまアやっと間にあって、先ず何よりそれが良かった。君もだ。」と東野は隣席の久慈の盃に酒を瀝いだ。そして、また、
「僕はパリじゃ、君にぽんぽん当り散らして失礼したが、もうあんなことはやらないよ。当時は実際失礼した。随分僕らは苦しかったり、愉しかったり、しかし、考えてみると、何んだかよく分らないね。君もだろ。」
「うむ。」と久慈も頷いて東野に盃を返した。
「それで良いのだよ。分ったら嘘だ。事物の自然化だとか、科学化だとか、そんなことを云ってる暇に僕らの生命力は、誰やらじゃないが、榴散弾みたいに進んでゆく。二度と同じことを繰り返さないよ。新しくなるばかしだ。西洋が良いの、東洋が良いのといったところで。おい、君、僕は近ごろ女房を亡くしてね、このごろじゃ、空というものの美しさが初めて分って来たのだよ。人生五十年、空の美しさだけがやっと分った、後は空空漠漠、――」
「今夜の日比谷の講演は、それをやりなさいよ。」と久慈は途中で東野に云った。
「いや、まだ考えちゃいない。それより、僕は君に賞めてもらいたいことがあるんだよ。僕は君から預って来たものを、破損もせずちゃんと日本まで持って帰って来たんだからね。君はそんなもの、もう忘れたというかもしれないが、それは僕の知ったことじゃないさ。しかし、君との約束を重んじたことだけは、忘れないでくれたまえ、それでいいだろう。人生で必要なものはそれだけだ。」
ここに集っているものの中で、夫婦別れをしたものは、久慈と真紀子とだけではなかった。遊部と藤尾みち子も前には夫婦だった。千鶴子と矢代もこれから式を上げようとしている間であり、塩野や佐佐も同様に進んでいたが、妻を亡くしたものは東野一人だったので、このときの東野の感想は、一同の頭に冷水を浴びせたような刺戟があった。
「待てよ。僕も女房に死なれた後のことは、まだ考えてみたことはなかったなア。」
と平尾男爵はしばらく遅れて云ってから、箸を持ったまま天井を仰い
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