だ。東野は講演の時間が迫って来たからと云って、料理の途中ひとり先に席を立って出ていった。
久慈は真紀子とパリで別れるとき、特に別れ話を二人でしたわけではなく、また二人は争ったわけでもなかった。東野の帰るという報せで偶然の便船を得た思いが、どちらにもしたというだけだった。二人の共同生活は、外国にいるかぎりのこととしたいと云った真紀子の言を、承認し合っていた結着が、まだそのままの折のこの会合なだけである。しかし、実際の生活はもうはるか以前のパリ当時に破れていた。それ以後二人は文通もなく、帰国してからも久慈は二たび真紀子と会おうとも思わなかった。が、いま会ってみると、後悔もしなければ、真紀子を惧れる要もなく、千鶴子と並んでいる彼女の姿を眺めていても、かつての共同の生活が、自分とは関係のない、別個の異国に於ける誰かの生活の絵を見るように、泛き上って来る愉しさが強かった。おそらく真紀子にしても、同様に前の二人の生活を撫でさすって眺めているに相違あるまい。その互いに思い泛べた絵の方へ二人は近より、懐しく何かを云おうとしても、も早や、二人で作った絵の原型は、手も届かぬ遠景となって流れているのである。
会がすんで小憩後、一同は招待を受けている田辺侯爵の別邸で、東野の講演放送を聴くこととして、それぞれ自動車道まで出た。車を道で探すときも、久慈と真紀子、矢代と千鶴子の四人は、一塊りとなって流れて来るタクシを待った。旅先でいつもそうしていた四人の習慣が、並んだ篠懸の街路樹にこもった闇の中で、つい今も、そのときのように自然に出るのだった。車に乗りこんでからも、灯火の色に浮き漂った日の追憶が、四人の身体を寄り合せて黙らせた。掠めすぎる樹の幹や、石垣の根が、胸を刺しとおる記号のように色めき立って走った。
「お変りありませんでした。」
と真紀子は、今ごろ不意に久慈に訊ねた。
「ありがとう。」
傍に真紀子のいることに気づいた久慈は、押し詰まって来ている彼女の肩の匂いをふと嗅いで云った。
間もなく、田辺侯爵邸の大きな門柱が顕れ、分乗して来た塩野たちの自動車も門に着いた。太い松の幹の傍に大桶を置いた玄関を這入り、飛び立つ鵜図を画いた衝立を廻って、次の室へ持物を置いた皆の後から、久慈はまた冷えた長い廊下を幾つも渡った。花が実に変ったばかりの南天の林に、灯籠の灯のさした庭が見えた。細い赤松の幹を揃えたその対うが街の谷らしかった。遠く灯の散ったその谷間に霧がかかり、あたりは薄明りの下に沈んだ港のような和かな色を見せていた。
離れの洋館に這入ると、皆はそこですぐ椅子に掛けようともせず、浅黄の絨氈の上をぶらぶらしながら、廊下からの談をそれぞれ続けた。
壁額にはマチスの近作がかかっていた。それと対応された黒塗の棚の陶器も、潤んだ光沢の宋窯の黒柿の壺だった。卵色の地に、とろりと溶け流れるような濡羽色の壺肌の前で、真紀子は久慈に、平尾男爵と帰って来た航海の日の様子を話したりした。マチスの裸女の背を取り包んだ、棕櫚の葉に似たタロカイヤの強い緑青色を見上げている平尾男爵は、その絵を田辺侯爵に買わせたときの思出を遊部に語りながらも、ときどき自分の名を発音する真紀子の方を振り返った。そして、ともに当時の海上の旅を想う風だった。
「そうそう、相当にこの人の俳句も上手いのがあった。クイン・メリーで君にあてつけた句も、僕はちらちら散見させて貰ったがね。」と男爵は久慈に云ったりした。
「東野さんの先生なら、それや伸びるだろう。」
皮肉のつもりはさらになく、そう久慈が云ったのに、真紀子の唇の黒子がぴりりと動いたようだった。
「それはお厳しいの、先生は――それに帰ってからもね。君のようなものは、硯でごしごし磨かなくちゃ、って仰言って、お習字までさせられるんですのよ。」
東野とのその後の潔癖な事情を、暗に久慈に匂わせるような真紀子の云いぶりも、も早やそのようなことをする必要のない場合だったが、久慈はそれを、東野に愛情を瀝いでいる真紀子の安らかさの結果だと感じた。またもしもそれを良いことに、うっかりと、パリでの二人の生活の縒りを戻そうと、一歩を踏み出そうものなら、忽ち体をかわして跳び退く用意さえ真紀子の方にある、滑らかな、辷り廻ってゆく心も感じられ、彼は彼で、なおつづく空しかった旅ごころにすべて身を任そうとするのだった。
「早坂さんからその後、何か便りがありましたか。一度パリの僕の宿へ訪ねて来られたことがあったが、――別に、君に関する話には触れなかったようだったなア。」
突然真紀子の前夫のことをそんなに云い出した久慈に、一寸真紀子はなまめいた眼差で笑った。
「便りなんか出来る人じゃないんだけど、――でも、どうしたんでしょうね。あの人、あなたの所へお伺いするなんて、分らないわ。」
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