タイをし、矢代の知っている久慈とはまるで変った服装で、やや長めの髪を撫で上げた、一見未来派の彫刻家か建築家に見える様子だった。太巻の蘆の素簾の巻き上った廊下から矢代を見つけた久慈はすぐ寄って来て、
「どうだ。」
 と一言、膝長く、日に灼けた顔立ちを近づけた。はるかにへだたった遠い海をおし縮めて、よりかかって来たような水色の、漠漠とした空気が一瞬飛び散り、しんと二人で静まり込んだ形だった。
「また行くとは、どういうものだ。」
「うむ。」
 久慈はただ無意味に呟いただけで、ゴールドフレークの蓋をあけ矢代にさし出した。呼吸も聞きとれそうな一本の煙草を抜きとるのも、指さきに、血の滴りつく思いで、矢代は懐しかった。
「海は暴れたか。」
「いや。」
「病気はすんだの。」
「まだだね。」
 夕闇の降りた胸の間で、久慈はダンヒルの点火器の頭をぼっと燃やし、また矢代にさし向けた。そして、庭前の緑の葉を潜り流れている水の涼しさを眺めたとき、さもうるさげに視線を反らし、始末に困った佗びしげな薄笑いで一寸あたりを見ると、こちらを見てる千鶴子と眼が合った。
 矢代は戦友の匂いをひと嗅ぎしてみるように、煙草の煙を咽喉へ落そうとして、何ぜともなく、ふともうこの男は死んで帰って来たのかもしれないと思った。何を云おうと無駄かもしれないと思った。
「スペインへは行かなかったんだなア。」
「傍まで行ったんだが、折れてカンヌからグラスへ出てみた。あそこはコティの薔薇畠があってね、紹介状を出したら、社長の細君が案内してくれたよ。」
 云いたいことのおしむらがって来る庭前の涼しさだったのに、叩けど響かぬ空廻りの感じで、矢代は心労と懐しさの手捌きに疲れを覚えた。
「細君は見つかりそうかね。」
 他意あってのためではなく、コティの社長の細君という連想の弾みで、矢代はふとそう訊ねてみたものの、同時に意味もこもり、我ながら羞恥も顔にのぼった。
「いや、まだだ。」
 と、久慈は急に明るく眉を開いて笑った。固い殻がぱっちり音立てて裂けたような笑顔だった。この久慈の美しい笑顔にあうと、いつも矢代は無造作に倒される自分を感じたものだったが、今も変らず、彼はまた、千鶴子とのいきさつなど忽ち遠のいて見えなくなる、恐るべき男の笑顔を感じて気持ち良かった。しかし、こうなると、互いに溶けあう親しさの募りにまかせ、人には云えぬ毒舌も熾んになる癖が出て、捻じあい、絡まり、啀みあい、果てしもなく争った外国での二人であった。つまり、矢代と久慈との二人の方が、千鶴子と矢代や、真紀子や久慈より、はるかに深い夫婦だったといって良い。その片割れの一人も先ず無事ここに帰って来て、笑顔を初めて矢代の前に見せたのが、今だった。


 打水で湿した平目の石に夕闇が降りていた。上衣を脱いだ客たちの集りから洩れた灯明りに、紫陽花の一株がぼっと白くにじみ出ている。初秋の夜もこの料亭の庭ではまだ暑かったが、藤棚に下った実の青さが、それぞれの客に何か物を想わせる涼しさを誘った。それは人の忘れていたもので、沈黙の間、久慈もふと立ってその実に触れたくなった青さだった。
 最後の客の東野が真紀子をつれて顕れたのはそのころである。彼は廊下の端から、久慈の方を一寸見てから、大跨につかつかっと近よって来ると、
「どうだ。」
 と、一言どさりと真向いに坐った。二人はどちらも眼を脱さず、じっとしたまま、笑いもしなければ口も動かそうとしなかった。何かの仕合いのように東野の幽かに微笑を含んだ眼もとが、暫くは、脱そうとする久慈の視線をぴたぴたと抑えて追っていく。視ているものらは息詰る瞬間の切迫さで皆黙った。
「うむ?」
 と東野は、誘いの水を向ける無意味な声を出した。
「何んですか。」と久慈も同じく無意味な微笑で訊ねた。
「御機嫌はどうかね。」
「いいですよ。」
「それにしてもだね。君に返す荷物があるんだから、一言、帰った挨拶があって、然るべきだろう。重かった荷物だぞ。」
 真紀子が出席するようなら、今夜の会へは欠席すると断ってまで出て来た久慈である。それも久慈と大石の帰朝歓迎会のこの席へ、東野につれられて来た真紀子であった。東野の重い荷物というのも真紀子を意味することなど、久慈のみならず他の客の誰にも通じることだった。
 婦人席には千鶴子を初め、田辺侯爵夫人、藤尾みち子など四五人の見える中に混って、真紀子は千鶴子とさきから話していたが、ときどき久慈の方へ視線を向ける面差しには、悪びれた風もなかった。むしろ懐しげな、追想に光りを上げた断面のような、照り映えた鮮やかさで久慈を見た。東野は振り返ってその真紀子を手招きした。どうなるものかと見ていた一同の疑惑ある視線の中を、手招きに応じ真紀子は気遅れもせず立って来た。
「挨拶、挨拶。」
 東野に云われた真紀
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