もそのまま蟻を捨てて置いた。すると、半時間もしたころ、蟻の大群の一角が舐めたように縮小していた。そして、全体が光線の射す廂の方へじりじり移動しつつ、直接日光をうけた柱の角までくると、そこからそれぞれ、空へむかって飛びたった。小粒で数万の大勢ながらも、初めから秩序整然としていて、誰か号令するもののあるような風韻ある動きで間もなく、あたりには一疋の姿も見えなくなった。
白蟻のこんな活動については矢代は前にも、幾度か本でも読んだことがある。しかし、この虫類のしなやかな本能の世界が整然と群団をつらぬき、統一を紊さず地中から空色で生れでて来て、そして、またたく間に空の青さの中にかき消えた姿は、眼のあたり、ぽとりと一滴の神水を落されたまぼろしに似ていた。ここでも何ごとか旅立ちがなされていたのだった。
彼は蟻の立った柱を叩いてみた。中に空洞のあるらしい乾いた音を聞きながら、彼は自分と千鶴子との結婚も、こうして巣だってゆこうとしている旅立ちに似ているとも思った。
「この家の土台を変えなくちゃ――」
と、また矢代は柱の下の黝ずんだ台木に指を触れて云った。
家を改造するにあたり、大工をとよの主人の清三郎に彼は依頼することにした。風呂場や茶の間を建て直す清三郎の姿が、毎日蒲田の方から顕れて来るようになったのは、梅雨も半ば過ぎていて、熟した梅の実が朴の葉を擦り落ちるころだった。清三郎は長めの顔で丈も高く、腹掛けの背の十字の紺も洗濯が利いていた。物数少く実直で、選択する木材も見積りを厭わず丹念なのもとよに似ていた。とよがまだ矢代の家の女中をしているとき、愛人に出す手紙の代筆を幸子に頼んで、熱しふるえながら、
「夢のかけ橋かすみに千鳥、想いかなわぬ身なれども――」
と、こう云い出したとよの様子を思い、そのときの相手がこの清三郎の姿かと考えると、雨に濡れた彼の背の十文字が、矢代にはおかしい封印の手紙に見えた。
家の改造が進捗している間、矢代の友人たちの間にも変化があった。須磨で療養中の東野夫人が亡くなった。由吉が再度の渡欧に旅立っていったのにひきかえて、久慈からはジュネーブにいる書記官の大石と一緒に日本へ帰るという手紙が届いたりした。また、塩野の縁談が急にまとまったことや、槙三が航空会社へ勤めることに定ったことなどもその一つであろう。矢代も久木男爵の会社へ一週に二日通い、小父の会社へは以前のごとく通勤し、ある大学の講師も、週二時間ばかり出席をひき受けたり、ようやく彼の身辺も多忙になった。
梅雨明けもまぢかく、軽雷のとどろくころになりながら、幾日もの蒸し気で汗が出た。ある日矢代は、久木会社の文化部で催された会合へ出ようとしている午後のこと、北京の郊外で、中国兵と対立していた日本軍の一隊が、中国軍の発砲に対してついに応えたという号外を見た。記事はごく簡単なものだったが、含まれた意味に群がる嶮しさ只ならぬ空気が満ちていた。
通りを歩いている人人の表情も、言葉少く俯向きがちのものが多かった。鋪道に撒かれた打水の飛沫が、剣尖のように色濃い鋭さを描いて足もとに迫り、歩きつつ矢代は、首筋にねばりつく汗を幾度も拭き拭きした。会場の支那料理店の日本間には、社から招待した先客多数が集っていた。それぞれ顎を胸に埋める風にし、壁にもたれた背も、動きが見られず息苦しそうだった。
「暑いね。」
たまにこういうものがいても、誰も黙って顔を見交そうとしなかった。
「大変なことになったもんだね。」
と矢代は同僚の一人に云った。
「一大事だ。」
同僚は眼鏡をせり上げたが、すぐ内から引き摺りこみあうものがあって、どちらもそれ以上の言葉を発しなかった。陶器の塀に包まれた庭に、露を噴いた若竹が節青く際立たせ、その向うに夕闇が降りて来た。脂肪でぎらついている顔の間を、湯気を立てた料理の鉢が廻って来たとき、矢代にはそれがまだ昨日とつづいている日常の水脈のように親しく見え、懐旧の情をさえ覚えた。実際、もう昨日までの一切の話題は、どこか古びた形骸に見える今宵だった。随ってこの日の会合の議題となるべき、
「東西両洋のヒューマニズムの相違について」
というテーマも、一同の胸中から散り落ちた無力なものに思われた。政治や経済や、思想や、その他文化百般の問題までが、華北で火を噴き始めた一角に集中された形で、各自の想像力がそこを中心に爆け飛び、とどまるところを知らぬ思いのまま、鶏や、豚や、家鴨の肉を盛った皿の上へ、自然に顔も俯向くのであった。
「もうこれで、平和は終ったよ。」
床の青柿の実を背に憂愁を瞼にたたえた哲学者の一人が、皿から顔を上げて云った。
「どうもそうらしい。」
その傍の文学者がそう云った途端に、突然、司会者が、機を掴んだらしく温厚な口調で発言した。
「それでは皆さん、これ
前へ
次へ
全293ページ中283ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
横光 利一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング